2023日 復活節第主日

          ヨハネ福音書14章1~14節 「 私の居る所にあなた方も居る事になる 」 

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 


 今日の福音書の箇所は、最後の晩餐、十字架にかかる前夜の場面です。弟子たちは、イエスさまが、本当に明日十字架にかかり、今、最後の言葉を告げていることをようやく受け入れているところです。更には、ペトロの離反を予告した直後です。イエスさまは言います。「心を騒がせるな、神を信じなさい」と。

この箇所は、ルターが大変愛した聖書の箇所であると言われています。この箇所で何度も説教をし、食卓でも、ここの聖句をよく引用して語ったと言います。ルターの出した本の中で、最も有名な本の一つは、「キリスト者の自由」という本です。また、ルターの言葉として、よく出てくる言葉が「大胆」という言葉です。「大胆に罪を犯せ、大胆に福音を信じよ。」そういう言葉が残っています。そしてルターという人は、実際に大胆な人であり、自由な人でありました。当時ヨーロッパ社会のなかで大きな権威を持っていたローマカトリック教会に対し、ローマ教皇に対し、やっていることが間違っていると抗議した人です。ヴォルムスの国会に呼び出され、今までの発言や著作を否定するように命じられても、否定しなかった人です。死の危険がある中です。このルターの宗教改革が一つのきっかけとなり、封建時代が終わり、近代が始まっていきます。なぜルターがこんなに自由に、大胆に生きることができたのか、ルターを支えていた聖句の一つが、今日の日課の中にあると言われています。

イエスさまは、十字架に架けられる前の晩、弟子たちに言います。心を騒がせるな、神を信じなさい。今日の説教題を見て、自分でも長すぎると思います。本来、すっと頭の中に入ってくる長さの方がいいと思っています。でも、今日は、少し長くても、この聖句を心の中に入れてほしい。「私の居る所に、あなた方も居ることになる。」イエスさまは言います。どこに居る事になるのか、父なる神の家です。「居る事になる」この言い回しの意味しているところは、自分で意図したわけではないのに、あるいはどんどん離れていっているように見えるのに、不思議と思いがけず、そうなってしまっている、という意味合いが含まれている気がします。

私たちにとって十字架とは、既に神聖なものに思えます。しかし、もともとの意味合いで言えば、異邦人のもとで死刑になることです。本来ユダヤ人の死刑の方法は、石打の刑です。今日の第一日課でステファノが石打にあって殉教する場面です。ユダヤ人は、十字架刑をしません。十字架は、ローマ人の死刑の方法です。渡されて、引き渡されて十字架に架けられたと言いますが、それは異邦人の手に引き渡された、という意味です。イエスさまは、死刑になっただけではなく、ユダヤ人の死刑にすら預かることができず、異邦人に引き渡されて死刑になった。ヤハウェから最も引き離されて死刑になった。しかし、それでもイエスさまは今、父なる神のもとにおり、神の右に座していると言われています。どんなに引き離されても、イエスさまは必ず父のもとに居る事になる。イエスさまは言う、私の言うことを信じられなければ、私の業を見なさいと。これから起こっていく神の御業を見なさいと。

神さまから引き離されるような人生の歩みをしたとしても、どんな人生の道のりを歩んでも、私の居る所に、あなた方も居ることになる、イエスさまはそう語っています。私は道である、そう語られます。イエスさまから逃れる道はありません。イエスさまが道だからです。ペトロの批判を予告した直後に、イエスさまは言います。それでも、心を騒がせるな私を信じなさい、私の居る所に、あなた方もいることになる。

私たちには最後に引き戻してくれるための、無限に伸びる命綱がついています。だから勇気を持って生きなさい。もっと自由に、もっと大胆に生きなさい、ルターはそのみ旨を聞いて、歩みました。

私たちも、勇気を出して、自由に、大胆に生きましょう。