202328日 聖霊降臨

          ヨハネ福音書7章37~39節 「 慈しみ深き 」 

:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしているについて言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、がまだ降っていなかったからである。

 先週韓国のソウルに行きました。ミョンドンというところのホテルに宿泊しましたが、そこは夜も屋台が出ていて、若者や観光客でいっぱいでした。日本人の観光客もたくさんいました。特に若い人は、韓国のメイクや、K-POP、ドラマ、食事など、韓国の文化に憧れている人がとても多いようです。ソウル滞在中に、韓国の教団事務局職員にずっとお世話になりました。運転手をしてくれた若い男性は、今週末に東京へ行くと言っていました。日本の食事や文化が好きだから、今までも何度も行ったと言います。韓国の神学生とも対話の機会がありましたが、教室に来た123人のうち、3人くらいは、日本語がわりと話せる、聞くとみんな独学で、日本のアニメが好きで、それで興味を持って学んだと言います。一緒に行った牧師同士で、お互いにないものを求めるんだね、と話しました。私たちはしばしばとした非日常、日常とは少し、違うものに憧れを持ちます。ここではない、どこかにあこがれを持ちます。今日の福音書の箇所で、イエスさまは言います。「渇いている人は誰でも私のところに来て飲みなさい。」と。この箇所は、仮庵祭というお祭りの場面です。秋に行われ、収穫祭のような意味合いも持っていたようですが、本来は、ユダヤ人の先祖が歩んだ荒野の40年を思い出すため、一週間仮庵、テントのような仮住まいで一週間を過ごす、という祭です。入り口は常にオープンになっていて、隣人を食事に招いたと言います。また、神殿では、荒野の40年で神さまが岩の間から、水を与えてくれたことを覚え、シロアムの池から水を持って来て注ぐという儀式が行われていました。その祭が最も盛大に祝われる終わりの日でした。祭の終わりって、最大の盛り上がりを見せながらも、どこか寂しさを伴います。日常に戻っていかなければならいことを予感しています。

 そんな時、イエスさまは言う、

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 

 今日は聖霊降臨祭ですが、ここで書かれている水とは、神さまの霊、聖霊のことです。その聖霊とは、あなたにとどまっているだけでなく、その人の内から、生きた水が川となって流れ出る、と書かれています。この聖霊とは、神の命であり、そして神さまの愛です。神さまから与えられる生きる力と愛情は、あふれ出て、あなたの周りの人を潤すと言います。今日の説教題、最初は「人を潤すもの」にしようと思いました。でも、実際、人を潤すって、どういうことだろうと思いました。イエスさまは、人を潤す方です。でも、もう少し具体的にどういう部分が、人を潤しているように見えるのだろう、そう思いました。恐らくそれは、イエスさまの憐れみ深さであり、慈しみ深さ。私たちはダメなものを裁き、弱いものをバカにする、そんな面を持っています。しかし、イエスさまは違う。実は、今日の讃美歌、奏楽者に頼んで、急遽最初の讃美歌を変えてもらいました。今日の最初の讃美歌は、この教会でも、日本中の教会でも、最も愛されている讃美歌と言っても、言い過ぎではないと思います。「慈しみ深き」です。ルターが礼拝式文にメロディーをつけた理由の一つは、字の読めない人でも暗記しやすくなるからだと言います。言葉はなかなか暗記できない私たちですが、不思議と歌の歌詞なら覚えてしまう。正確ではありませんが、慈しみ深きならば、なんとなく歌詞を思い出すことができる。

 イエスさまは、罪、咎、憂いを持つものを裁くのではなく、それを取り除こうとされる方です。世の友がいなくなる状況でも、慰めてくれる方。弱さをバカにするのではなく共に負ってくださり、嘆きや悲しみを励ましてくれる方。慰めてくれる方です。慈しみ深い人、人に潤いを与える人とは、こういう方です。私たちは、生まれながら慈しみ深い人間ではありませんが、イエスさまが私に慈しんでくれているように、私もイエスさまのように、慈しむものになりたい、イエスさまを見るとき、そんな思いが溢れてきます。色々な国の文化に憧れることは構いませんが、まず第一に、イエスさまの慈しみ深さに憧れましょう。今の自分とは少し違う自分になりたいなら、慈しみ深い人間になりましょう。具体的なわざは、あなたは讃美歌で覚えています。それに聖書を読むと、どうやら、私たちが慈しみ深いものになるための第一歩は、まず私たちが、神さまの慈しみをたっぷり受けることのようです。神さまの愛、聖霊をたっぷり受けることです。やがてそれがあふれ出て、私たちの内から川となって流れ出ていきます。イエスさまは言います。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

 渇いているものとして、喜び勇んで飲みに行きましょう。至らない弟子ではありますが、こんな私を用いてください、と祈りながら、聖霊を注ぎ、あなたの愛と慈しみをお与えくださいと祈りながら、新しい一週間を始めましょう。

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