202364日 三位一体

          マタイ福音書28章16~20節 「 神の言葉の力 」 

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 昨年信徒の集いをリモートで開催しましたが、その時講師をしてくださった宮本先生が、先生自身も執筆者の一人ではあるのですが、日本語に翻訳された「アジアの視点で読むルターの小教理問答書」という本が出版されました。アジアの視点も加わっていますが、それだけではなく、現代の視点でルターの小教理問答書を読み直す、という意味でも有益な本だと感じています。

 その中で使徒信条の「聖なる公同の教会」という部分の解説で、こう書かれています。

 教会はキリストを中心としたコミュニティーであり、また「イエス・キリストを土台」としている。ここで教会とキリストとの関係は重要である。教会がキリストを所有するのではない、教会の方こそがキリストのものなのである。

 教会が、イエスキリストという偉大な存在を持っているのではありません。教会の方が、神さまに用いられている。そう教えています。この本には続きにこんなことも書かれています。

 一致を語る教会は、いくつにも分かたれている。唯一の公同の教会を告白しながら、津々浦々に散在する諸派の教会が存在している。また教会は聖なるものというよりもむしろ、罪深い現実を示すこともあるだろう。

 そのような現実に触れるならば、所詮、教会もまた人間的な組織にすぎないと思われても仕方ないだろう。しかし、まさにそれでこそ、そのような教会自らが、「教会のしるし」に立ち戻ろうとすることが大事なことではないだろうか。

 教会の実態を見ると、他の人たちに比べて、倫理的に秀でているわけでも、愛の塊のような存在でもありません。ただ、イエス・キリストだけが、正義と慈しみに富む方です。私たちキリスト者は、赦された罪人の自覚をもって、何度も躓きながら、イエスさまの正義と慈しみに立ち戻っていくものです。

 今日の福音書の箇所は、大宣教命令などと呼ばれたりもしますが、福音が世界に解き放たれた場面です。ユダヤの国だけで語り継がれてきた聖書の教え、イエスさまの福音が、全ての民に教えるように初めて命じられた場面です。そして、実際にイエスさまの福音は、2000年にわたって、世界中で語られ続けています。その後の結果を知っている私たちは驚かないかもしれませんが、当時の人には信じがたい言葉だったかもしれません。

 宮本先生が、去年の講演で語っていたことの一つは、教会が世の中の人からどう見られているかというと、世界中にネットワークがある組織だと思われている、そう語られていました。韓国やケニアに出張に行くと私が洗礼を受けた瞬間に、こんな仲間ができたのだと思いました。2月に、トルコ・シリア地震の支援協力のお願いをしました。シリアへの支援って、けっこう難しくて、ルーテル教会とカトリック教会の修道院が協力して支援をしました。教会は確かにいろんな教派に分かれていますが、困っている人を助けようとするときは、教派を超えて協力できます。

 私たちは揺らぎますが、教会の土台であり、中心であるイエスさまは揺るぎません。今、世界の中で教会が急成長しているのは、アフリカです。ただ、教会の歴史で最初に盛んになったのは、アフリカでした。ルターに最も影響を与え、教会の歴史上最大の神学者の一人であるアウグスチヌスは、アフリカの人です。2000年の歴史がある教会は、時流や勢いで一喜一憂するものではないのでしょう。2000年の荒波を乗り越えて、世界に広がる教えです。復活したイエスさまが弟子たちに教えたことは、聖書の言葉は必ず実現する、ということでした。時に神さまは、なぜ沈黙しておられるのだろう、そんな風に感じることもあります。でも、神さまの言葉は生きています。教会は間違えますが、イエスさまが教え、体現する正義と慈しみは本物であると確信できます。

 教会が洗礼を授けるのは、教会の伝統だからではありません。今日の箇所で、イエスさまが洗礼を授けよ、と命じられているからです。人間の側が揺らいでも、イエスさまの約束は揺らぎません。イエスさまは最後に言います。

 私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいると。

 私には救い主がいつも共にいる。そのことを改めて信じ、歩みだしましょう。


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