2023618日 聖霊降臨後第3主日

          マタイ福音書9章3510章13節 「 主の平和 」 

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。 10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

 ふと思うことは、何で人はこんなにお金を欲しがるんだろう、そう思うことがあります。私は別にいらないと思っている、というわけではなくて、わたしも欲しいんです。色々な理由があるでしょうが、トラブルや、病気になった時、いざというときに備えて、そんな思いもあるでしょう。お金があれば、必要なものを手にするとき、選択肢が増える、そういう思いもあるかもしれません。資本主義が始まってから、たくさん資産を持っていることは、成功者であることの、一つの証し、という考えの人もいるかもしれません。
 保証がほしい、認められたい、とりわけお金を求める人ではなくても、人間の中には、そんな欲求が、いつもある。そして、それは常にこれで十分にはならない。それで過剰にお金を求めたり、過剰に承認を求めたり、過剰に健康を求めたりしてしまうのかもしれません。時には、この満たされぬ不安に駆られて、人は罪を犯してしまうのかもしれません。一つの節ですが、今まで依存症の原因は、快楽や喜びを過剰に求めてなされると考えられていましたが、今は、普段感じている不安や苦しみを忘れさせてくれるから、それを繰り返しているのでは、と言われているそうです。
 今日の箇所では、イエスさまが町や村を巡り、会堂で教え、福音を伝え、病気の人をたくさん癒していく中で、イエスさまが強い思いを持つ。群衆が弱りはて、打ちひしがれて、羊飼いのいない、羊のようだと憐れまれたと書かれています。
 それでイエスさまのしたことは、十二人の使徒を選び出し、イエスさまと同じ権能を授けたと言います。そしてその12弟子を派遣します。あれを持っていくな、という指示もありますが、具体的にこの弟子たちにさせたことは「神の国は近づいた」と伝えること、そして「平和があるように」と挨拶することでした。「平和があるように」という挨拶は、ユダヤ人の日常的な挨拶です。しかし、この指示はただの挨拶させるという意味ではないようです。

 家の人々がそれを受けるのにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる

 そう書かれています。神の権能を授かった人ができるわざをつかって、それが成就する場合もあれば、しない場合もある、という話のようです。
 私たちの心の中には、生まれたときから、得体の知れない、自分でも言葉にできない不安がある気がします。その不安に駆られて、勉強したり、他のことで努力したり、たくさん働いたりしてきました。もしかしたら、努力家の人は、何か不安に駆られて、それをしているという一面もあるのかもしれないと思います。
 実際、お金持ちになったり、実績を積み上げたり、人に認められたり、健康的な体になったり、する人もいるでしょうし、そうなりたかったけど、そこまでではない人もいます。むしろこの得体のしれない不安に駆られて、罪を犯してしまったり、それを忘れるために、薬物やお酒を飲みすぎてしまう、そういう人もいるかもしれません。

 ルターは修道士の時代、週に二度、断食も、徹夜の祈りもし、あのまま行っていたら死んでいたかもしれない、と告白しています。そこまで修道したのも、不安に駆り立てられていたのだと言います。人一倍修道したが、全く平安ではなかったし、他の修道士もそうだったと語っています。
 この得体のしれない不安を、人は自分の力で克服することはできないようです。誰かに必ず守ってあげると言われても、人が人を守ることには限界があります。この不安からの守りを、保証できる唯一の存在は、神さまだけです。それは死をも超えた守りです。それに気づいていったのが、ルターです。私たちにできることは、この神の守りを信じることです。どんなことがあっても、神さまが必ず最後に救い出してくれると信じること、救い主が救い出してくれることを信じることです。これが主から与えられる平安、主の平和です。教会は、主の平和を語る権能を授けられている場所です。
 教会よりも親切な人が多い互助会のようなものならたくさんあるかもしれません。でも、使徒以来、教会は、神さまの守りを語る権能を授けられている場所です。主の平和と共に歩みだしましょう。


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