202379日 聖霊降臨後第6主日

          マタイ福音書11章16~19 25~30節 「 柔和で謙遜 」 

16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

  『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』

  ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 よく考えると、おかしな言葉があります。「赤子の手をひねる」という言葉があります。通常とても簡単という意味で使われます。でも、かわいい赤ちゃんの手ひねれますか。胸が痛くて、とてもそんなことはできません。人は、叱られるから、とか、罰せられるから、とかではなく、悪いとわかっていて、悪いことをすると、心の痛みを覚えることがあります。保育の研修で聞いた話ですが、赤ちゃんもどうやら、良い人と悪い人とを見分けていて、悪い人には不快感を示す、という話を聞きました。人はどうやら生まれつき、良心、良い心を持っていて、本来良いことをしたいと願っているし、本来悪いことはしたくない、と思っているようです。でも、好奇心や嫉妬心、不安や欲などが絡み合って、実際には悪いこともしてしまいます。
 今日の日課の、25節でイエスさまは、急に、

 天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

 そう神を賛美し始めます。急にと言ったのは、話の流れに全く沿っていないからです。前半部分では、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」そう語られています。少し意味は分かりにくいのですが、これは結婚式ごっこをしようと言っても、誰ものってくれなかった。葬式ごっこをしようと言っても、誰ものってくれなかった、という意味であると言われています。洗礼者ヨハネのように、ストイックに断食などをしていると、「悪霊に取りつかれている」と批判し。イエスさまのように喜びとともに、罪人共に食事をしていれば、「大食漢の大酒飲み」と批判する。朗読で飛ばされた部分も、小見出しでは、「悔い改めない町を叱る」とついていて、批判的な言葉が続いています。しかし、25節に入ると、急に賛美と感謝が始まります。何に対して、賛美と感謝をしているのか、それは、知恵あるものや賢いものではなく、幼子のようなものに、福音を示してくれた、ということです。
 悔い改めを遠ざけているのは、実は人間の知恵や賢さなのかもしれません。私たちは大人になって、言い訳がずいぶんとうまくなってしまいました。素直に間違いを認め、悔い改めるということがなかなかできないものです。私たちは大人になって、屁理屈とこじつけがずいぶんとうまくなってしまいました。はた目から見れば、うまくいっていなくても、自分自身ではなかなかそれが認められない。意地になり、屁理屈とこじつけを使って、自分の失策をなかなか認めないものです。ヨハネを見れば、悪霊に取りつかれていると言い、イエスさまを見れば、大食漢の大酒飲み。ああいえば、こういう。素直に教わろうとしないものです。
 素直に間違いを認め、素直に教えを乞い、素直に助けを求めれば、重荷はずいぶんと軽くなり、安らぎが与えられるのだと思います。言い訳や理屈を言って、無理矢理つじつまを合わせようとして、随分と遠回りし、更に余計なことをやらなければならない時があります。

 イエスさまは呼び掛けます。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 意地を張るのをやめましょう。素直に自分の失敗、自分の過ちを認め、イエスさまに助けを求めましょう。イエスさまに倣うべきこと、それは柔和さと謙虚さです。それをあなたが身に着けると、もっと生きるのが楽になると言います。荷は軽くなる

 ここで軛というものが出てきますが、軛というのは、二匹の家畜の牛を木の棒でつなぐものです。キリスト者というのは、イエスさまと共に歩むことを強制されたものです。イエスさまの姿を見続けることを強制されたものです。それは、私たちが、すぐに柔和さと謙虚さを忘れ、意地になって重荷を勝手に背負い込むからです。イエスさまの姿を見て、我に返ってほしい。謙遜さと柔和さを、すぐに取り戻してほしい。

 過ちを認め、悔い改め、余計な重荷は降ろして、新しい一週間を歩みだしましょう。


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