2023716日 聖霊降臨後第7主日

          マタイ福音書13章1~9 18~23節 「 み言葉という種 」 

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 今日の福音書には、「種をまく人のたとえ」という小見出しがついています。イエスさまが種のたとえ話をし、後半ではイエス様ご自身が、そのたとえの意味を解き明かしています。今日の日課では飛ばされていますが、その間に、弟子たちが、なぜ他の群衆には、たとえで話すのかを尋ねています。弟子たちには、たとえの意味が解き明かされますが、他の群衆には解き明かされません。たとえではなす理由は、彼らは聞くには聞くが、理解しないからだと言います。ここで使われている「たとえ」という単語は、分かりやすくするための例話、という意味でも使われますが、逆に「謎に包む」という意味もあると言われています。ある牧師がこの箇所の説教で、この種のたとえは、たとえ話をする意味を伝えるたとえ話だと語っていました。
 種というものは改めて考えてみると、とても不思議なものです。ただの小さな石粒のように見えますが、あの小さな種に命が宿っています。野生の植物で言えば、秋に実が落ちて、種が土に埋まったとしても、冬の間は芽を出しません。春になり、暖かくなるとそれを感知して、動き出す、発動し始めます。野生の種は、誰の世話も受けず、自ら芽を出し、葉をつけ、根を張り、土の中の水分や栄養を吸収し、また、太陽の光を受けてエネルギーに変換し、自ら成長していきます。小さな種が、歳月をかけて大きな花を咲かせ、木になるものもあり、実を実らせるものも出てきます。あの小さな種が、こんなに大きくなることは、よく考えると不思議なことです。たとえ話にあるように、環境が悪く、種のうちに鳥に食べられるものもあり、芽は出したが育たないものもあり、途中まで育ったが育ち切らないものもあります。しかし、ひとたび成長すれば、一つの種から、多くの実を実らせることができます。
 人の手によるのであれば、良い環境をつくり出して植えることもできます。今年は気候が悪く、環境が整わなければ、その種を取っておき、翌年に植えることができる種もあります。良いコンディションで種を保存し、環境が整のうまで、命をキープしておくことができます。花は枯れますし、実は腐りますが、種は取っておくことができます。
 この種にたとえられているのは、神さまの言葉です。聖書の言葉であり、イエスさまの言葉です。神の言葉を聞いて、全く芽を出さない者もいるし、すぐに芽を出すが、根がなくすぐに躓くものもいる。だいぶ順調に育つが、世の煩いや富の誘惑のせいで、育ち切らない者もいる。しかし、ひとたび実をつけると、たくさんの実をつけさせるもの、それが神の言葉だと言います。いろいろな人がいる、というだけの話ではなく、自分一人を振り返っても、色んな時期があります。イエスさまの話を聞いても、何も思わなかった時期。ああすごい、と一瞬は思ったが、ただそれだけだった時期。このままいけば、信仰者になると思われたが、煩いごとが重なって、信仰どころではなくなった時期。でもある時、このみ言葉は自分に語られている、自分のために語られている、そう感じられる時期。
 私自身、忘れられない経験で、聖書の中に、ブドウ園の主人が、労働者を雇う話があります。朝から働いた人、昼から働いた人、夕方から働いた人、賃金を払うときに、朝から働いた人も、夕方僅かに働いた人も、同じ賃金1デナリオンだった。朝から働いた人はもんくを言います。なんで一緒なんだと。主人は、約束は破ってない、最初に1デナリオンの約束をした。約束は守っている。私の気前の良さを妬むのか、私は最後のものにも同じようにしてやりたい、そう語ります。納得のいくような、納得のいかないような話です。
 この教会のKさんとYさんのお母さん、Sちゃんと呼んでいましたけど、教会に来てから知り合いましたけど、私が洗礼を受ける前からの知り合いでした。私が洗礼を受ける時にも、たっちゃんも変なのになっちゃうのかい、と言われたことを覚えています。そうは言いながら、牧師になった後も、旭川教会の与斉先生の就任式で会ったりもしていました。私がこの教会に牧師として就任した年に、KさんとYさんから、Sちゃんに病床洗礼を授けてほしいと願われました。その頃、Sちゃんは、自分の意志で洗礼を受ける、という状態ではありませんでした。こういうケースで洗礼を授けて良いものか、分からなかったので、神学校の先生に状況を説明して、洗礼を授けてよいものか、確認しました。返事は、洗礼を授けてよい、ということで、洗礼を授けることになりました。その数か月後、Sちゃんは召されました。葬儀もしました。葬儀から数か月後、今度は簾舞に納骨することになりました。納骨式で、どの聖書の箇所にしようかと聖書を読んでいたら、あのブドウ園の労働者の話が目に留まりました。Sちゃんは洗礼を受けて、数か月で召されました。短い信仰生活でした。でも、神さまは言います、最後に働いたものにも、同じ恵みをあげたい。変わらぬ恵みをあげたい。この話は、慰め深い聖書の話だと改めて思いました。
 神の言葉は、環境が整わず、芽が出なかったり、実りにならないこともしばしばあります。でもある時、環境が整って、み言葉を悟る、大きな実りになることがあります。種は蒔いて、無駄になり、減ってしまうことがありますが、神の言葉はいくら空振りしても、減って無くなってしまうことはありません。ですから、すぐに分からなくても、み言葉を聞き続けましょう。いつか、ハッと聖書が分かる、たとえの意味が分かり、慰められ、支えられる時が来るかもしれません。無駄を承知で、み言葉の種をこの世界にまきましょう。ある時環境が整って、すぐには響かなかったみ言葉が、誰かを慰め、支える時が来るかもしれません。耳のあるものは聞きなさい、イエスさまそう言いながら、すぐに悟れない人にも、たとえ話を語られます。み言葉の種を受け続け、み言葉の種をまき続けましょう。


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