2023723日 聖霊降臨後第8主日

          マタイ福音書13章24~30 36~43節 「 神の国の畑 」 

13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

今日は北海道地区の交換説教ということで、こうして札幌中央教会のみなさまと共に礼拝に与っています。このような機会を与えられたことを神様に感謝いたします。与えられています主のみことばを分かち合い、主なるイエス様と共に歩む幸いを受け取られるよう願いながらお話ししたいと思います。

今日与えられていますみことばはイエス様がお話しくださった譬え話しですが、何と、折角良い種を蒔いていた畑に、毒麦の種が蒔かれてしまったという、何とも嬉しくない話しなのです。譬え話しですので、それには意味があるのですが、その意味については、イエス様ご自身が解説してくださっていますので、その解説を聞き入れたいと思います。

お話しは、こうです。良い種を蒔いた畑に敵が来て毒麦を蒔いたので、両方とも同時に育ってきます。最初は見分けが付かなかったでしょうが、段々毒麦の特徴が現われて、そこで働いている人たちが気が付く程になったところで、畑の持ち主に毒麦が混ざっていることを告げ、毒麦を抜きましょうかとの提案をするのです。

すると、その畑の主人は、今は抜かないで置くと言います。その理由は間違えて良い麦も抜いてしまうかも知れないからということです。そして、その主人は刈り入れのときが来たら、まず毒麦を刈って、焼いてしまい、次に良い麦を刈って倉に入れるといいました。

そして、イエス様の解説によりますと、良い種を蒔く者は人の子だといいます。人の子といえば、イエス様です。つまり、この解説によりますと、良い種を蒔くのはイエス様だという話しです。これは、他の譬えでも同じなので、言えるのは、イエス様が蒔くというとき、それは、イエス様の体である教が蒔くということでしょう。

つまり、この世に置かれているイエス様の体である教会が種を蒔くのです。教会はこの世で宣教する存在です。聖書を通して伝えられている神様のことばや、神様の愛を実際に行う信仰の歩みの全てを通して良い種は蒔かれています。

それは、教会での説教であったり、証しであったり、説明であったり、それと同時に、人々に奉仕をする関わり、仕える働き、例えば、幼児教育であったり、心や体の支援を必要としている人たちへの支援であったり、紛争や戦争で追われて逃げた難民などへの支援であったり、病気にかかった人へのケアであったりなど色々な仕える働きを通して宣教活動が為されています。

そのようにして良い種は蒔かれています。そしてその種を蒔かれる畑は世界であると説明されています。この譬え話しは神の国は次の通りであるというイエス様のお話しですから、神の国のことを伝えている譬え話しです。その神の国の話しで良い種がこの世界に蒔かれているということが言われているということです。

つまり、神の国というのは何処か知らないあちらの世界の話しというのではなく、この世界にイエス様が良い種を蒔いておられるというのが神の国を言い表しているお話しだということになります。そして、良い種とはみ国の子らで、毒麦は悪い者の子らだといいます。更に、毒麦を蒔いたのは悪魔だと説明されています。

刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れをするのは天使たちであるとはイエス様の解説です。世の終わりに刈り入れをするのは人間ではなく、天使だということでわたしたちは同じ人間同士は裁き合ってはならないことがわかります。

わたしたちが刈り入れたり、分けたりするのではないということです。しばしば、わたしたちは思い違いをして、同じイエス様の子らを裁くようなことをしてしまうことがあるものですが、それは人間がすることではないということです。

パウロによれば、この世にあって、わたしたち人間は肉と霊との存在であることが告白されています。パウロ自身は、以前は律法を自らの力で守って神のみ前に義なる者として立つことを目指しており、実際にそれを実践出来ていると誇っていた人でした。

けれども、復活のイエス様と出会い、自分がイエス様を迫害している者に過ぎないという現実に気付かされて、それまでの自分を悔い改め、イエス様によって洗礼を授けてもらい、自分の義ではなくイエス様の義によって罪赦され、神様のみ前に義なる者と認められて救われるという体験をしました。

そのパウロが、自分のしていることが分からない、律法の要求していることが良いことだと分かっていても、それを実行できていないという実態を自ら認識させられていることを告白していて、何とみじめな自分だろうかと、自分自身を嘆いています。

そして、そのような情けない自分のような人間をみ心に留めてくださり、出会ってくださり、その罪を全て担って十字架についてくださったイエス様の憐れみを知るようになりました。そのようにして、自分の力によってではなく、イエス様の憐れみにより、十字架の出来事によって罪赦され、復活によって生かされる信仰を受け入れて、イエス様に従う僕となったのです。

この世にあるわたしたちは父である神様のみ前で、義なる者ではなく、罪にまみれたものであり、汚れた存在です。あのパウロでさえも、自分のしていることが分からない、自分がしようとする善は行わず、するまいと思っている悪はこれを行っていると告白しているくらいです。

まして、わたしたちは益々そうなのであって、日々、汚れたことを思い、呪わしいことばを口にし、人に対しては大いに差別的であり、えこひいきし、自分の都合を最優先し、神のことばは忘れ去って、それを思い起こすことすら少ない日々をおくってしまいます。

ですから、世の終わりのときに、自分自身の理由では、最早救いようがなくて、天使が来て刈り入れるとき、毒麦のように束にされて、火に投じられても当然のものでしかありません。どんなに頑張ったところで、その現実から逃れられるものではありません。

この罪に染まり、上から下までどっぷりと罪の中に浸っているわたしたちを、その泥沼の中から引き上げ、自らの血によって洗ってくださり、わたしたちの全ての汚れを、醜さを、裏切りを、過ちを赦し、取り除いてくださることによって、救い出してくださる方はこのイエス様だけです。
かの日、刈り入れの日、本来ならば、天使たちによって毒麦として集められ、火に投じられて当然のわたしたちが、父である神様のみ前に立つとき、イエス様が執り成してくださり、この人はあの十字架によって罪を拭い取った人で、わたしたちの仲間ですと言ってくださる。という約束をわたしたちは信じているのです。いや、それによりすがっているのです。
そのときが来るまでの間の今のときは、来るべきときにイエス様が執り成してくださることを信じてみ後に従って生きていたいのです。イエス様がこのみじめな毒麦でしかない者の犯してしまった多くの数えきれない程の毒を十字架によって取り除き、正しくないものなのに、信仰を与えてイエス様の義を着せ、正しい者として立たせてくださり、麦の仲間として受け入れてくださると信じて、神の国の畑で生かされていたいのです。

               


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