2023730日 聖霊降臨後第9主日

          マタイ福音書13章31~33 44~52節 「 天の国を知る喜び 」 

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

先々週から、私たちは種の譬えを通して天の国について語られたイエスさまの話しを聞いています。イエスさまは、譬えを通して天の国について語られながら、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。イエスさまが、譬えで話をされ始めたのは、イエスさまが、湖のほとりに座っておられた時、大勢の群衆がイエスさまのもとに集まって来たからです。群衆が集まって来たのは、イエスさまに病気を直してもらいたくて来た人たちも大勢いたと思いますが、山上の丘でイエスさまが話されていたのを大勢の人たちが聞いていたように、イエスさまの話しを聞こうと思って来た人たちも大勢いたと思います。その人たちにイエスさまは「耳のある者は聞きなさい」と、あえて言われました。あえて、言われたのは、聞くということは、ただ言葉を耳にするだけでなく、何を言おうとしているのか、相手の言おうとしていることを傾聴し、考えていこうとする関係が大切だと思います。つまり、イエスさまが、この話しを通して、私に何を知ってもらおうとして語られているのかを考えながら耳を傾けるのです。私たちも、この御言葉を通して私に何を示そうとされているかと耳を傾け、考えながら聞いて行きたと思います。

今日の御言葉も、引き続きイエスさまが「天の国」について語られたたとえの箇所ですが、今日は、そのたとえが、種の話ではなく、少し角度が違う視点から述べられています。イエスさまは、天の国は、からし種や、パン種のようなものだ、と言われます。からし種は、米粒よりも小さな種ですが、その種が、アッという間に大木に成長してしまうほど、驚きを覚えると言われるのです。パン種も同じことです。パン種をいれたパン粉は、想像を超えるほどに膨らむ、という身近な例をもって神さまの御業が大きく膨らんでいくことに驚きを覚えるというのです。次に、イエスさまは、天の国は、畑に宝が隠されていたのを発見されると、隠されている宝の土地は全ての持ち物を売り払ってでも、手に入れたくなるほどの土地や、又、良い真珠で商売を行っている人が自分の持っている物を全部売り払ってでも、手に入れたい真珠を発見したことだと話されました。この一連の譬えでもって、イエスさまは、天の国は、人の考えを超える以上の驚くべきもので、その驚きを知った者は、隠された宝が入っている土地や、全ての物を売り払ってでも手に入れたい真珠を発見した商人のように、どうしても手に入れたくなるほどのものが「天の国」です、と言われるのです。それだけでなく、天の国は、網が湖に投げ降ろされると、いろいろな魚が網の中に入り、大漁となるほどの喜びを持って網を引き上げるものだと言われます。

どの話しも、理解しえないような難しい話しではないと思います。問題は、私たちが、そのように話される天の国を手に入れたいと思っているのか、どうかということだと思います。

イエスさまは、今日の最後の箇所で、弟子たちに「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と言われました。ここは、少し解説が必要かと思います。“新しいものと古いものを取り出す”という意味は、新訳聖書と旧訳聖書受けとめる者として理解していただきたいと思います。つまり、信仰をもつ者は、天の国を知る学者であると理解して良いと思います。私たちも、信仰を持つ者です。ですから、私たちも天の国のことを学んだ学者であり、私たちが、からし種から大木になるほどにしげる神さまの御業を、商人が全てを投げ打ってでも手にしたいように、天の国を手に入れたいと思っているかどうかということが問われてきているのです、と繰り返して言いたいと思います。ところが、残念ながら、私たちは自分の持ち物を全て投げ打ってまでもして天の国を手にした思えないことが多いのではないでしょうか。それは、どうしてでしょうか。天の国は、からし種が大木ほどにまでしげる神さまの御業の世界だと思えてないからではないでしょうか。そこで、神さまの御業とは何か、ということになります。聖書が語る神さまの御業は、救われないで裁かれざるを得ない存在である私たちを裁かないで、イエスさまの十字架の死という贖いによって、私たちを救いの中に置かれたということです。48節以下に『網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」』と綴られています。とても、恐ろしく響いてくる言葉です。聖書は、私たちの命は、死んだら終わりであり、何も無くなってしまうようなことは何も言っていません。マロソンのように、初めにスタートがあり、ゴールがあるように、私たちの人生も死んで終わりになるのではなく、神さまの評価があるというのです。そして、その評価によって、裁かれざるを得ない私たちのためにイエスさまが身代わりになって十字架の死をお受けになられたというのが聖書の語っている福音です。その福音を知りながらも、私たちは、しばしば自分が裁かれざるを得ない存在であることを見失ってしまうのです。そして、神さまさえも、私しあっての神さまという関わり方をしてしまいます。それが故に、人との関わりでも、私を軸として全てを判断していくのです。そして、私のその時の気分によっておごり高ぶる者となったり、時には自信喪失をするような状況の中に陥り、必要以上自己卑下をして落ち込んだりという愚かさの中に落ち込んでしまうのです。そんな私たちに

、神さまは、私たちを天の国を知る学者と迎え入れる関わりを今、なさってくださって、神さまの御業を知った者だから、自分の思いに囚われてしまうことから解放され、滅びから救いの恵みを与えてくださったイエスさまを見上げて歩むことを第一にして進めるように祈りましょうと送り出してくださっているのです。ヨハネによる福音書ではこのように言います。「3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

 

               


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