202320日 聖霊降臨後第12主日

          マタイ福音書15章21~28節 「 畏れながらも 求め続ける 」 

15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 今日の福音書の箇所は、異邦人の女性、カナン人の女性が出てきます。この女性は、最終的にイエスさまから、あなたの信仰は立派だ、と言われる人です。しかも、あなたの願い通りになるように、そう言われた人です。ある牧師は、戸惑いを覚えると言います。信仰というのは、神さまをうまく利用して、自分の思い通りにしようとすることではない、と教わったと言います。自分の思いも率直に祈りながらも、自分の思いをはるかに超えた神の御旨に気付かされていくことだ、そう教わったと言います。この女性は、自分の願いをかなえてもらっています。この女性が求めたものは何か、特別に信仰深い事なのかというと、そうではなく、娘の病気が癒されることです。恐らく、信仰を持っていない人でも、自分の子どもが重い病気になれば、祈りに似たことはすると思います。どういう意味で、この女性は、信仰が立派なのでしょう。
 世界中で人気のある日本の漫画で、ドラゴンボールという漫画があります。話の始まりは、ドラゴンボールという7つの玉、ドラゴンボールを集めると神龍、神の龍と書いてシェンロンが出てきて、願いが叶えてこくれる、という話です。その後は格闘漫画になっていきます。格闘漫画になった後も、時々、ドラゴンボールが集められ、神龍に願うという場面が出てきます。このシェンロンと、聖書に出てくる神さまが似ている、というわけではなくて、似ていないところの方が多いです。でも、神龍から少し、教わるのは、人間と神龍は、全然同格ではない、ということです。巨大な龍の姿をしていますから、畏れを与えられる存在です。そして、このシェンロンは、願いをすべて叶えてくれるのではなく、願いを拒絶することがあります。あと、この漫画から教わることの一つは、最初はドラゴンボールを七つ集めた後、自分の欲しいものを願ったりしていました。しかし、後半の願いはほぼ、死んだものを生き返らせてほしい、という願いになります。めったにない、神に直接、願いを言える機会に、人間が少しがんばれば手に入るようなものを願う必要はない。神さまに願うのなら、聞かれるかは分からないが、人間にはできないことを願うべきだ、ということを教わります。
 このカナンの女は、すぐにイエスさまに願いを聞いてもらったわけではありません。最初は何も答えられず無視されています。なお願うとようやく返事をしてもらいますが、その返事は「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われ、その次には、子どものパンを取って、子犬にやるわけにはいかない、と言われています。そこまで言われるならと、怒って帰ってもいい、そう思う人もいるでしょう。しかし、この女性はわきまえていました。もちろんイエスさまは、龍のような姿はしていません。私たちと同じ姿をしていますが、自分とは圧倒的に違う、神の子であると、感じていました。人にはできないが、神の子であるこの方にはできることがあります。無力な母親として、神の子に娘を助けてもらえるかもしれない、最初で最後のチャンスを諦めなかった。三度拒絶するイエスさまに、子どもの食卓からこぼれ落ちるパンくずをください、そう願いました。するとイエスさまは言います。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」
 私たちがしばしば忘れることは、神さまは私たちを救わなければいけない、というわけではないということです。滅ぼすこともできる存在です。一度は、ノアの家族以外の人類を滅ぼしています。神さまは、私たちの願いに対して、沈黙することも、拒絶することもできる存在です。私たちと立場が同じではありません。イエスさまのたとえ話の中に、ある主人が全ての施設を準備してブドウ園を始めたという話があります。収穫の時期に、遣いを送って収穫を受け取ろうとしたら、農夫たちは、遣いのものをことごとく殺し、収穫を納めない。最後に主人は、息子ならば敬ってくれるだろうと思い、息子を送り込むが、農夫の方は、息子を殺せばこのブドウ園が自分たちのものになると思い、その息子も殺します。しかし、最後は割とあっけなく、この主人が帰ってきたら、悪い農夫どもを殺し、きちんと収穫をおさめる、他の農夫に貸すだろう、という話で終わります。農夫の方は、主人と対等に渡り合っているつもりだが、結末を聞くと、主人は圧倒的な力を持っていることを見せつけられます。人間と神さまは対等ではなく、圧倒的に違う存在です。
 しかし、そのことをわきまえつつ、その上で聖書が教えていることは、その圧倒的に違う存在である神さまは憐れみ深く、慈しみ深い方だということです。全てをゆるして、なお救おうとされる方だということです。
 本来、拒絶されて当然のものとして、でも、神さまの憐みにすがり、信じて願い続ける。それが本来の信仰の姿だと、この聖書の箇所は教えています。
 
圧倒的に違う存在だからこそ、人間にはできないことができます。だからこそ、畏れながらも、神さまの愛を信じて、祈り続けましょう。


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