202327日 聖霊降臨後第13主日

          マタイ福音書16章13~20節 「 希望 」 

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16:20
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 私の父は、実家が小樽にあって、お盆とお彼岸にはわりと欠かさずに小樽のお寺のお墓参りに行っていました。私が大学生の頃、もう教会に行き始めていたと思うのですが、お盆か何かに父と墓参りに行ったとき、なぜお墓参りに行くのかと、尋ねたことがあります。すると父は「仏様が墓参りに来るか、見ていてチェックしているんだ」と言われ、そんなチェックをする仏様がいる天国にはあまり行きたくない、と思ったことを覚えています。
 ただ、聖書の示す、天国、神の国というのは、具体的には全然分かりません。主の祈りによれば、御心がすべて行われているところ。朽ちる身体ではなく、朽ちない体を持つところ。ただ永遠の命、というのは人間の理性では分からないものだ、とカントが言っていました。この時間のある世界とは、違う世界のようです。ようは、この世の生活が、長く引き伸ばされるような場所ではない、ということです。この世の生活が、長く引き伸ばされるだけの世界なら、逆にあまり行きたくありません。朽ちる身体を抱えながら、御心に満ちていない、愛に満ちてはいない、この世界でずっと生きるにはしんどい。
 今日の箇所は、ペトロの信仰告白、イエスさまを、神の子、救い主と告白する場面です。ペトロは、自分の師、自分の主として、十分に信頼し、全てを捨てて、イエスさまに従う生活をしていました。しかし、イエスさまと共に歩み、イエスさまのするわざ、イエスさまの語る言葉を聞いて、先生の一人、自分の師、という以上のものを感じ始めていたのかもしれません。イエスさまは、弟子たちに、人々は、私のことを何者だと言っているかを尋ねます。弟子たちは、洗礼者ヨハネの再来、エレミヤだ、預言者の一人だ、と答えます。その評判を聞くだけで、イエスさまが当時、ただの偉人以上の存在だと、多くの人から思われていたのが分かります。しかし、イエスさまは、改まって、ではあなたがたは、私のことを何者だと思うのかを尋ねています。
 するとペトロが、あなたは、メシア、生ける神の子である、と語ります。するとイエスさまは、ペトロに、あなたは幸いだ、あなたにこのことを示したのは天の父であると言います。あなたの土台の上に教会を建て、天の国の鍵を授ける、と言います。
 しかし、この時ペトロは、イエスさまのことがよく分かっていたのか、メシアのことがよく分かっていたのかというと、決してそうではありません。来週の日課になりますが、この直後に、イエスさまは受難と十字架、復活の予告を初めてします。ペトロは、そんなことがあってはいけない、と言ってイエスさまをいさめようとしますが、イエスさまに、退けサタン、と言われています。
 ならば、ペトロの信仰告白は、失敗で、あなたの上に教会を建て、天の国を授ける、と言ったことは、イエスさまの見誤りだったのでしょうか。
 信仰と理解することとは違います。信じることと、分かることは違います。私たちにとってイエスさまがすっかり分かってしまう、ということはありません。御心が、すっかり分かってしまう、ということもありません。信仰とは、信じることです。イエスさまの語る、神の国とは、どんなところか、具体的にはよく分からない。でも、この方が連れていってくださる所なら、この方の御心が行われる場所なら、ついて行ってみたい、そう思えることが信仰です。
 今日の説教題は、「希望」にしました。カトリックの信仰を持っている思想家の若松英輔さんという人の文に、希望と願望は違う、と書かれていました。願望とは、欲望に近くて、切りがないほど、増えていくと言います。でも、希望というのは、稀なる望みで、それが深まれば、個人を離れ、普遍に近づくと言います。真に希望が近くに感じられる時、希望は持つとは言わずに、「抱く」と言われると言います。
 ペトロは、全然イエスさまを理解していなかったかもしれませんが、イエスさまに新しい希望を感じた。希望を抱いた。それは自分で持ったものではなく、与えられたものです。
 私たちも、イエスさまを理解しているものではありません。でも、イエスさまに新しい希望を与えられたものです。信頼はする側の力ではなく、させる側の力であり、それは恵みです。自分ではつくり出すことのできない希望を、イエスさまによって抱かせていただいたもの、それがキリスト者です。信仰と希望と愛を抱いて、新しい一週間を始めましょう。


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