2023年9月3日 聖霊降臨後第14主日 |
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マタイ福音書16章21~28節 「 為すべき事 」 | |
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 |
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私が教会に通い始めたころは、バブルの時期でした。同時に第4次宗教ブームと言われ、統一教会や、幸福の科学、オウム真理教などがよく話題になっていました。バブルと宗教ブームがなぜ同時に発生したのだろうと思います。バブルの時期は、私も含めて霊的な飢え渇きがあったと思います。モノがあふれ、お金が飛び交い、娯楽もにぎやかでした。それでも、自分の中に埋められない、空洞があり、ものを手に入れても、楽しいことをしても、どこか満たされないもの、どこか空しさが付きまとっていました。 たとえ全世界を手に入れても、命を失ったら、何の得があろうか という言葉が出てきます。ここで命と訳されているギリシャ語の言語は、プシュケーという言葉で、命とも訳されますが、心とか魂とも訳される言葉です。全世界を手に入れても、心を失う、魂を失う、そういうことがあると思います。
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