2023日 聖霊降臨後第14主日

          マタイ福音書16章21~28節 「 為すべき事 」 

16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 私が教会に通い始めたころは、バブルの時期でした。同時に第4次宗教ブームと言われ、統一教会や、幸福の科学、オウム真理教などがよく話題になっていました。バブルと宗教ブームがなぜ同時に発生したのだろうと思います。バブルの時期は、私も含めて霊的な飢え渇きがあったと思います。モノがあふれ、お金が飛び交い、娯楽もにぎやかでした。それでも、自分の中に埋められない、空洞があり、ものを手に入れても、楽しいことをしても、どこか満たされないもの、どこか空しさが付きまとっていました。
 今日の福音書の箇所に、

 たとえ全世界を手に入れても、命を失ったら、何の得があろうか

 という言葉が出てきます。ここで命と訳されているギリシャ語の言語は、プシュケーという言葉で、命とも訳されますが、心とか魂とも訳される言葉です。全世界を手に入れても、心を失う、魂を失う、そういうことがあると思います。
 今日の箇所は、ペトロの信仰告白の直後、初めて、受難と十字架、それに復活の予告をする場面です。それを聞いて、ペトロはイエスさまをいさめたと書かれています。この方こそ救い主、そう信じ始めた人が、苦しみを受けて十字架に着けられる、そんなことがあってはならない、ペトロがそう思う気持ちはよく分かります。それに対してイエスさまは、「サタン引き下がれ。神のことを思わず、人のことを思っている」そう言います。イエスさまは、自分の思いよりも、神さまの御旨を優先させる方。自分のしたいことではなく、神さまの望まれることをしたいと思っています。それも、受難と十字架の道です。私たちにはできないと思います。しかし、イエスさまは、続けて、「わたしについてきたいものは、自分の十字架を背負ってきなさい」そう語られます。
 現代でも、なぜこの人は、この大変な道を選ぶのだろう、そう思う人がいます。マザーテレサとか、アフガニスタンで医者をやりながら、井戸を掘る中村哲さんとか、北海道家庭学校の、留岡幸助とか谷正恒さんとか。もっと楽な道もあっただろうに、なぜ大変な道を選ぶのだろう、と思います。それこそが、自分の使命、自分に課せられた十字架、そう感じたのかもしれません。
 私たちは恥ずかしながら、そこまでできない、と思ってしまいます。ただ、そのような人たちを尊敬し、一目置く、そのような心は与えられています。
 使命という言葉は、命を使うと書きます。使命などと言われると、そんな大げさなものは持てない、とも思います。でも、そんな私たちにも、為すべき事、というものはあります。自分のやりたいこと、自分の好きな事とは別に、自分が為すべき事、というものが与えられている気がします。実際私たちの毎日は、自分のしたい事だけをして過ごしているわけではありません。たとえほんのわずかでも、そこまでしなくて良いとは思いながら、それでも自分の小さな「為すべき事」と感じながらやっていることがあります。ただ、為すべきことをやっていても、心の中で愚痴が出てきます。他の人はもっと楽にやっているんだろうなあ、と。正直に言えば、自分もさぼることもあります。やらないほうが楽だったりします。でも楽を続けていると、やがて空しく感じ始め、生きている手ごたえを感じられなくなります。生きている意味が分からなくなっていきます。魂を失っていく。
 楽ではないが、為すべき事を積み重ねた、苦労した人にしか見えないものがあります。パウロがローマ署5章で、こう語っています。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言います。「練達」は普段使わない言葉かもしれません。調べると、成熟して深いところが見えてくること、と書かれています。練達は希望を生む。希望は私たちを欺くことがない、と言います。
 為すべきことを苦労しながら歩んだ人は、たくさんではないが、使命感を感じ、志高く、歩む人が見えてきます。時には、自分の志を引き継いでくれる人が起こされていく人もいます。そして、何よりも、神さまの御旨に従って、受難の道を歩み、十字架に向かって歩んでいく方の本当の栄光が見えてきます。この希望は、私たちを欺くことがない、聖書はそう教えます。自分のしたい事だけする、空しい生き方ではなく、神さまに与えられている、自分の生きている意味を感じられるような、使命とは言えないほどの、ほんの小さな為すべきことを果たしていきたいと思います。


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