202317日 聖霊降臨後第16主日

          マタイ福音書18章21~35節 「 大きな方 」 

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 たまたま、以前自分が書いた文書のファイルを見ることがあります。読んで思うことは、若くて勢いがあるけど、随分と浅いなあ、と思う。この浅さは何なんだろうと思います。若い時は、理想に燃えている。情熱もある。でも、まだ、自分の本当の弱さ、自分の本当のずるさ、自分の本当の情けなさを知らない。分かっているふりはしているけど、本当には分かっていない。少し長く生きていると、何度か、本当に追い詰められるような状況になることがあります。そんな時に人は、思いがけない自分に出会います。こんなに弱気で、こんなに逃げ回り、醜い振る舞いをし、しょうもない嘘をつく。今は恵まれて、そんな振る舞いはしていないけど、追い詰められれば、自分は又似たようなことをする気がします。
 今日の箇所で、ペトロがイエスさまに尋ねます。兄弟が自分に罪を犯したら、何回まで許すべきか、7回までか。当時のラビの教えで、3回までとか4回まで許しなさい、という教えがあったと言われています。これでもペトロは大盤振る舞いをしたのかもしれません。しかし、イエスさまは、770倍も赦しなさい、そう語って、たとえ話を始めます。ある王の前に、借金をしていた家来が連れて来られ、借金を返せと言われます。金額は1万タラントン。ちょっとあり得ない金額で、ざっくり一兆円くらいと思ってください。まあ、たとえ話なので。王様は家来に、妻も子も、持っているものを全部売り払って返せ、と迫ります。家来は、必ず返すから、どうか待ってください、としきりに願ったと言います。王様は、その家来を憐れに思って、その借金を全部帳消しにしてあげた。しかし、この家来は、仲間に100デナリオンお金を貸していた。100万円くらいです。その仲間は先程までの自分のように、必ず返すから待ってくれとしきりに願ったが、この家来は許さず、その仲間を牢に入れたと言います。見ていた他の仲間が、事の次第を見て、非常に心を痛めた、と書いてあります。この出来事を王に告げ、王は家来をもう一度呼び出し、私が憐れんでやったように、あなたも仲間に憐れんでやるべきではなかったか、と言ってこの家来を牢に入れた、という話です。
 最初に言っておきますが、神さまは、この王様とそっくりそのままだ、ということではありません。借金の返済のために、妻や子どもを売るように神さまは言われないでしょう。このたとえで伝えようとしていることは、キリスト者の赦しというのは、赦す側が我慢して、我慢して赦すというものではなくて、自分も多くの人に赦されながら、神さまに赦されて、助けられながら生きてきた。自分を憐れんでくれた人のことを覚えて、自分も憐みの心を持つ、ということです。
 ヨハネ福音書8章に、姦淫の罪を犯した女性がイエスさまのところに連れて来られ、この女性をどうすべきか、聖書によるなら、石をぶつけて撃ち殺せ、と書いてある、そう詰め寄られる話があります。そこでイエスさまが言われたのは、この中で罪を犯したことのないものが、この女性に石をぶつけなさい、そう告げると、誰も石をぶつけずに去っていく、という話があります。人には知られてはいなくても、人は自分の罪深さをよく知っています。ヨハネ8章の場面では、年長者から去っていったと書かれています。人はある程度生きると、自分の弱さを思い知る経験をします。何回まで許せばいいのか、7回までか、と尋ねたペトロも、十字架の出来事の中で、思いもかけない、情けない自分に出くわしていきます。神さまとあなた自身が知っている、あなたの弱さがあります。イエスさまは、あなたの罪を赦されます。あなたの身代わりに、罰を受けてくださいます。あなたを見て憐れに思ったからです。
 懐の大きな方に出会うと、自分の小ささを思い知らされます。寛容な方に出会うと、小さなことを許せない、自分の小ささに気付きます。それもまた、恥ずかしい。でも、その時、ほんの少し、もう少し寛容でありたい、そう祈り始めるかもしれません。イエスさまほど、憐れみ深い方はいません。罪人を救うために、自分の命を差し出す方です。大きな方の赦しを感じて、ほんのわずかでも、憐れみ深いものにしてくださいと祈りながら、歩みだしましょう。


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