202324日 聖霊降臨後第17主日

          マタイ福音書20章1~16節 「 すべての人に恵みを 」 

20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 今日の箇所は、「ぶどう園の労働者のたとえ」という小見出しがついています。ぶどう園の主人が、朝労働者を11デナリオンの約束で雇い、昼にも雇い、夕方にも雇う。一日が終わると主人は、最後に来たものから賃金を払っていきます。夕方から働いた人が1デナリオンもらっているので、朝から働いた人は、もっともらえるだろうと期待していたら、同じ1デナリオンだったので、文句を言います。丸一日暑い中働いたのに、夕方に1時間しか働かなった連中と同じ扱いにするとは、どういうことかと。しかし、主人は朝から働いた人に、最初に1デナリオンで約束したではないか、ほかの連中にいくら払うかは、私の勝手だ。私の金を私のしたいようにして、何が悪いのか。私の気前の良さをねたむのか、そう答える話です。確かに、朝から働いた人は、1デナリオンの約束をして、約束通りの金額をもらっている。約束が破られたわけではない。それでもやはり、腹が立つ。人は仮に自分が十分に満足していたとしても、自分よりも恵まれている人、自分よりも幸運な人を見ると腹が立ちます。この主人、おそらく神さまは、少しでも理由をつけて、多くの人に恵みを与えたいと思っている。でも人はそこで、足を引っ張りあいます。
 実はこの個所、北海道ルーテル学園の研修会で、学園傘下の幼稚園の先生方と一緒にグループディスカッションで話し合った箇所でした。そのおかげで、いろんな感想を聞くことができました。解き明かされるとよくわかるが、どうも腹の中で納得できないとか、次の日は絶対夕方5時から働くとか、もし自分がわずかしか働かず、1デナリオンもらったなら、次の日に恩返しをしたい、という人もいました。
 私は神学生時代、2年くらい東京の山谷という町で、ボランティアをしていました。岡林信康という人の歌で、山谷ブルースという曲がありますが、かつては日雇い労働者の町でした。私が神学生のころは、路上生活者が多くいる町でした。日雇い労働者が高齢化し、働けなくなり、路上生活者になった。今は、外国人向けの安宿街になっているようです。
 人は生まれる国を選べません。生まれる家を選べません。生まれる時代も選べません。仕事があるって恵まれていることです。それだけで恵まれている。仕事に就けない人が多くいる国があります。今はだいぶ豊かな国になってきたが、かつては、とても貧しかった国もあります。私たちは、貧しい時代の、貧しい国の貧しい家に生まれていたかもしれません。仕事があるって、当たり前のことではありません。仕事があることは、恵まれている。普通の暮らしができることは、それでも十分に恵まれている。私たちは、明日も同じように恵まれているとは限りません。不運に不運が重なり、不幸に不幸が重なって、あらゆる恵みを失う可能性があるものです。
 だからこそ、自分が恵まれていても、どこかに食べることができない人がいる、と思うと、100パーセント喜ぶことはできません。運の違いでしかないかもしれないからです。本当の平安は、すべての人が恵まれたときに訪れるものでしょう。
 イエスさまが持っていて、私たちに欠けている祈りがあるとすれば「すべての人が幸せになるように」という祈りかもしれません。
 神さまは、気前の良い方です。少しでも理由をつけて、恵みを与えようとする方です。一人でも多くの人に、恵みを与えようとする方です。すべての人に恵みを与えようとされる方です。心の狭い私たちが足を引っ張りあってはいけません。すべての人に恵みが与えられるように、私たちも心からそう祈れた時、1時間しか働かなかった人が、1デナリオンをもらえた時に「良かったね」と思える気持ちが与えられるでしょう。


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