202310日 聖霊降臨後第18主日

          マタイ福音書21章21~32節 「 魂に触れる 」 

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 私が神学校最終学年の時、全生園というハンセン氏病の施設で牧会の実習していました。入所者の交流会の時間があって、そこで交わりの時を持っていました。必ず最後にカラオケの時間あり、最後に歌う曲が決まっていたんですけど、その歌が喜納昌吉さんが作った「花」という歌でした。「泣きなさい、笑いなさい、いつの日か、いつの日か、花を咲かそうよ」という歌詞の。この歌、私が神学校に行く前に、アジアを一人旅していたんですけど、シンガポールという国で、盲目の物乞いの人が、この曲を演奏していて、ドキッとしたのを覚えています。この歌は、国を超えて、立場を超えて、人の魂に響く歌なのだと感じます。どう良いのか、理屈では説明できません。でもおそらく100年後も歌い継がれる歌だと感じました。
 先週知って、少し驚いたのですが、毎年クリスマスイブの時に最後に祈っているのですが「聖フランシスコ平和の祈り」がどうやら聖フランシスコ自身が唱えた祈りではないらしい、ということです。おそらく20世紀に作られた祈りで、誰が祈ったのかは分からないそうです。許すことで許され、愛することで愛され、死によって永遠の命が与えられる。理屈ではわかりませんが、魂に響く祈りです。
 新約聖書がこの27巻に確定したのは、紀元397年のカルタゴ公会議です。400年くらい、聖典がはっきりしないままで、教会は歩んできました。聖典に何を入れるかどうか何が基準になったかというと、一応、パウロを含めた使徒と呼ばれる人が書いたものであるかどうか、ということになっています。しかし、近代の研究で、これは使徒の名前、パウロの名前が使われているが、本当は違う人が書いたのであろうということが定説になっているものもあります。実は、使徒にさかのぼれるというのは、後付けで、本当は400年近い時の経過の中で、この27巻だろう、という評価が確定していたそうです。いわゆるクラシック、古典と呼ばれるものも明確な基準があるわけではありません。バッハ、ベートーベン、シェークスピア、ドストエフスキー。おそらく今後も、国を超え、時代を超えて聞かれ継がれる、読み継がれる、理屈ではなく、本当の基準は、人の魂に引っかかるものです。
 カトリックの信仰を持っている若松英輔さんは、意識の奥深くにある魂に訴えかける歌や言葉、祈りがあるといいます。普遍的なものに触れ、語りえないものを語ろうとする詩や歌、祈りがあるといいます。作者の意識というより、天からの啓示を受け、自分の意思にかかわらず、語らざるを得ないものが与えられえた人がいます。本来語りえないものなんだけど、何とか語ろうとすると、詩のような言葉になるといいます。聖書におさめられている預言書も、詩のような形で語られています。
 祭司長や長老はイエスさまに聞きます。何の権威でこのようなことをしているのかと。イエスさまは問い返します。洗礼者ヨハネの洗礼はどこからのものかと。天からのものだといえば、ではなぜ信じないのかと言われ、人からのものだといえば群衆が怖い、皆がヨハネを預言者だと思っている、祭司長や長老は答えられなくなります。
 聖書は教科書のようには書かれていません。神話のように語られ、詩のような形で語られ、物語のように語られ、手紙の形で語られます。意識で理解するものではなく、意識の奥にある魂に訴えかけるコトバです。過去の記録ではなく、生きた神の語りかけです。
 神さまに問われるのは、常に今のあなたです。過去の自分、これまでの自分ではありません。いつだって今の自分です。過去に立派なことを言っても、実際には行動に移さない時もあります。過去には父に背を向けても、考え直して父に従う人もいます。
 あなたは神さまに愛されています。悔い改めて、この福音を信じなさい。イエスさまは、私の救い主、そう信じて問いかけに応答することが信仰です。イエスさまは、私に従うように、私たちの魂に訴え続けます。意識ではなく、イエスさまのコトバ、イエスさまのみ姿に、魂が揺さぶられるなら、イエスさまに従いましょう。


トップ