202310日 聖霊降臨後第19主日

          マタイ福音書21章33~46節 「 感謝 」 

21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 昨日、久しぶりに寿都教会で奉仕しました。牧師になりたてから10年毎週大麻から、寿都に片道3時間半かけて、通っていました。昨日改めて、ずいぶんと道路が良くなったと感じました。以前は、トラックがすれ違えないトンネルがいくつかありましたが、今はすっかり大きなきれいなトンネルになりました。寿都の教会に通っている頃、よく聞かされた話は、寿都のひかり保育園ができるまでの話と、その保育園が閉園していくまでの話でした。居場所なく放置されている子どもの姿を見て、教会の青年会で、保育園を作ろうという話になり、アイスキャンディーを売ったり、町の人から寄付を集め、札幌のエマヌエル教会のかまぼこ兵舎を買い取り、宣教師の先生のうちにあったぬいぐるみだけのおもちゃで、園を始めたこと。そこにたくさんの子供たちがあふれるように集まったこと。町議会で問題になり、町立の保育園ができたこと。町全体の子どもが減っていき、閉園となっていったこと。そのころ、大麻で幼稚園の園長をさせられ、あれもない、これもないと心の中で不平や不満を言っていたが、建物が既にあり、組織が経験を重ねていたことは、それだけでも恵みなのだと寿都の話を聞かされて、思わされたことを思い出しました。
 札幌の教会に赴任してからも、ルーテルハウスを建てる時に、どのようなトイレにするか、お風呂にするか、台所にするか、福住委員の人と建築会社の人と何度も話し合いを重ねました。一つの建物を建てるだけで、これだけ多くの人の苦労や知恵、心砕く思いがあったのだと気づきました。ルーテルハウスだけではなく、神学生寮のルターハウスを建てる時も、幼稚園が建て替わるときも、私は横目で見ていただけですが、いろいろな人が心砕いている。
 そんなことを知らない大学生のころ、初めて聖書を読んで、この個所で、ぶどう園の労働者の気持ちがわかると思ってしまいました。実際に働いたのは自分たちだ、なぜ収穫を納めなければならないのかと。このたとえは、神さまとユダヤ人の関係だといわれています。神さまがすべてを備えて、ユダヤの国を作り、この国が世界の祝福の源になるように願った。苦労の歴史を記させ、小さなものを大事にするように、孤児、寡婦、旅人などを大事にするようにこの国を導いた。にもかかわらず、ダビデ、ソロモンの時代を経て大きく豊かな国になると、神さまの教えを大事にせず、恵まれたものを全部、自分だけのものにしようとした。預言者を送って、立ち返らせようとしても、預言者を迫害し、殺していく。さらに多くの預言者を送っても、同じように殺す。最後に、神の子を送れば、敬ってくれるかもしれない、そう思ってひとりごを送ったが、そのひとりごも十字架にかけられていく。
 でも、このたとえ話、少し違和感を感じます。終わりが実にあっけない。この主人最後にきて、収穫を納めない農夫を殺して、収穫を納める農夫に貸す。そんなことができるなら、早くそれをすればよかったのに、と思います。でも、この主人が望んでいたことは、収穫を手に入れることではなかったのでしょう。環境を整えてくれたことに感謝し、実際に働いて収穫をしてくれた農夫と一緒に喜び合う、そのことを望んだからこそ、殺されても僕を送り、最後は息子まで遣わした。いつか気づいてくれると、ユダヤ人を信じ、最後まで願った。
 この主人が望んだことは、収穫ではなく、一緒に喜び合うことだったのではないでしょうか。神さまが私たちに望んでいることも、命与えられ、どれだけ立派なことを成し遂げたか、ということではないでしょう。苦労することもあるが、いつも神さまは必要なものを備えてくれていた。ほんの小さなことでいい。小さな喜びの中で、神さまありがとうございます、心の中でそう思える瞬間があった時、神さまもともに喜んでくださいます。
 一人ですべてを自分のものにして生きる、それも自由でしょう。でも、神さまありがとうございます。心の中で、そう思えたときに、私たちの人生観は変わります。
 私たちは先達が積み重ねてくれたものの上にいます。苦労し、知恵を絞り、そのような多くの人たちの土台に立って、今の自分がいます。ただ自分だけの力で、手に入れたものはありません。先達が備え、神さまが備えてくれたものの中で生きています。苦労もありますが、神さまがこれからも、いつも必要なものは備えてくださいます。
 先達に感謝し、神さまに感謝して、新しい一週間を始めましょう。


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