20231022日 聖霊降臨後第21主日

          マタイ福音書22章15~22節 「 揺るがないもの 」 

22:15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 最近学んだ言葉で「拝一神教」という言葉があります。一つの神だけを拝む、という意味です。唯一神教とは、少し違います。拝一神教は、ほかの神々がいることは認めながら、自分はこの神だけを拝むというのが拝一神教。唯一神教は、神はおひとりでほかの神はいない、という考え方です。
 実は、旧約聖書の中に、この拝一神教と唯一神教が、混ざって書かれている。旧約聖書は比較的新しい文書と古い文書が混ざって編集されているようです。しかし、旧約聖書の研究者によると、ユダヤ人は、最初は拝一神教の考え方が強かったのですが、時代を追うごとに、唯一神教へ向かっていったようです。NHKの100分で名著というテキストにうまくまとめられています。
 唯一神教って、すごいというか、スケールが大きい。天地を造り、命を造り出した唯一の神がひとりおられる。人類を滅ぼしたり、死者に命を与えて救われる神です。この世界のものは、すべて被造物に過ぎない。
 今日の箇所で、ファリサイ派の人はイエスさまに尋ねます。ローマの皇帝に、税金を納めることは、律法にかなっているかと。当時ローマの硬貨には、皇帝は神である、と刻まれていたといいます。ユダヤ教の中で、ローマ皇帝の命令に従って、ローマ皇帝に税金を納めることは、背信の罪とみなされる可能性がありました。ここにあまり出てこない、ヘロデ派という人たちが出てきますが、ヘロデ家は、先代のヘロデ大王から、ローマの皇帝の力を借りて王になった人です。いわゆる親ローマ派、ローマへの納税を拒否すれば、この人たちにつかまる可能性もありました。皇帝の税を拒否すれば、ヘロデ派につかまり、皇帝の税を納めれば背信の罪を着せられる。イエスさまは、板挟みの状況に追い込まれたように見えます。
 しかし、イエスさまは、そんなこと一顧だにしませんでした。当時はローマ帝国の全盛時代でした。ヨーロッパ全土、地中海を挟んだ北アフリカ、中近東、アジアに及ぶまでローマの領土、あるいは属国でした。シーザー、アウグストゥスに続く時代です。クリスマスは、アウグストゥスの人口調査の勅令から始まりました。まさに全盛期でした。しかし、いくら全盛時代のローマの皇帝でも、天地の造り主、死者をも救う全能なる神と比較するような次元ではありません。ローマ帝国も、全世界の一部にすぎません。ローマの皇帝も、小さな被造物にすぎません。税金を納めようが、納めまいが、天地の造り主を左右するような出来事ではありません。
 遠藤周作の代表作に、「沈黙」という作品があります。隠れキリシタンの時代にポルトガルから、宣教師ロドリコが隠れてやってきます。隠れキリシタンは喜び、久しぶりの聖餐式を受けます。しかし、やがて幕府にキリシタンは見つかっていき、踏み絵を踏まされ、踏まずに殉教するものも出てきます。ロドリコは心の中で思い続けていることがあります。なぜ、神はずっと沈黙しておられるのだろうかと。やがて、宣教師のロドリコも捕らえられます。踏み絵を差し出されますがロドリコは、踏み絵を拒否して殉教の覚悟をします。しかし、相手は巧みで、ロドリコを殺すのではなく、ロドリコが踏み絵を踏むまで、一緒につかまった信徒を拷問にかけていきます。すると、苦悩の中にいるロドリコに、踏み絵の中のキリストが沈黙を破って、ロドリコに語り掛けます。踏み絵の中のキリストは言います。「私を踏みなさい、私は踏まれるためにいるのだから。」
 ロドリコは、踏み絵を踏みます。その後、ロドリコは、仏教の僧侶の姿をして、日本で暮らしていきます。仏教を信じたわけではありません。以前よりも深く、キリストを信じながら、生きたことが暗示されていきます。僧侶の姿をしていようが、踏み絵を踏もうが、神さまにより強く捕らえられた心は、だれにも変えることができません。
 神さまに捕らえられたあなたは、もう神のものです。それは誰も揺るがすことができません。今日の主日の祈りでも「贖い」という言葉が出てきます。贖いとは、奴隷や芸者などを、どこかの見受け人が代価を払って解放され、見受け人のものになることです。あなたは十字架の代価によって、神さまに贖われたものです。あなたは、もう神さまのものです。それは永遠に揺るがない命綱です。カエサルに税金を納めようが、踏み絵を踏もうが、僧侶の姿で暮らそうが、あなたが神のものであることは、まったく揺るがないことです。
 イエスさまは言います。「皇帝のものは、皇帝に返しなさい。神のものは、神に返しなさい。」あなたは何をしても、揺るぐことなく、もう神のものです。あなた自身が、イエスは神の子、救い主、と刻まれたものです。この命綱を信じて、大胆に歩み出しましょう。


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