20231029日 宗教改革主日

          ヨハネ福音書8章31~36節 「 キリスト者の自由 」 


8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 祈り:主よ、今、私たちはあなたの御言葉に耳を傾けます。あなたは、私たちに「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」と教えられました。私たちは、この一週の始まりにこの聖日を覚え、あなたが私たちのために遣わしてくださったイエスさまを通して一週の歩みを振り返らなければ、私たちがどれほどあなたの愛から離れた歩みになっているかも自覚出来ない者として歩んでしまいます。今から聞く御言葉を、私たちが聖霊の力を受けながら、素直に聞き取っていくことができ、あなたの豊かさに包まれて新しい一週の歩みへと出て行くひとときとなりますように、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 本日は宗教改革主日としての礼拝を行っています。宗教改革というのは、皆さまも良くご存知のことですが、私たちのルーテル教会の創設者とも言えるマルチン・ルター(ルターはあらたな教会を作ろうとは考えていませんでした)が当時のローマ・カトリック教会が発行している贖宥状(または、免罪府)と言う、罪を犯した者に対して、その処罰を免状するという証書の発行に対して異議を申し立てたことが発端です。ルターは、聖書を重視し、聖書こそが絶対であり、その聖書には、贖宥状を購入することによって罪が赦されるというようなことは書かれてはいない。聖書は、イエス・キリストの十字架の贖いによって人は救われ、人を救くおうとされる神さまの義こそが全てであると記していると主張したのです。私たちは、義と言う言葉を連想する時、正義という言葉を浮かべてしまい、神の義は、正しい者と正しくない者を裁く義だと感じてしまいがちですが、聖書が語る神の義は、繰り返しますが、罪人である私たちを救う義でると、ルターは言ったのです。聖書が語る罪人とは、何度も何度も言っていますが、悪いことをした者と言うことではありません。ギリシャ語ではハマルティアと言う、日本語にすれば「的外れ」という言葉で、愛である神さまの的から外れている。つまり、神さまの方向に心が向いていないで、自分の思いに心が向き自分の思いに心囚われている者ということです。
 ルターは、修道僧時代、人一倍聖書を読み、誰よりもよく祈り、神さまに良しとされる修道僧でありたいと努力をしたそうです。しかし、努力をすればするほど、まだこれでは足りないという不完全な自分を見つめざるを得なく、自分の愚かさ、弱さばかりに心が向き、神の裁きに恐れ悩み苦しんだそうです。そのような中で、今日の使徒書の日課であるローマの信徒への手紙の321節以下の「信仰による義」というパウロが示す喜びの音信である聖書の福音を知ったのです。その福音は、人は善行をすることによって救われるのではなければ、ましてや贖宥状などの証書を手に入れて救われるのではなく、十字架の死による贖いと復活によって、罪に勝利されたそのイエスさまを信じることによってのみ人は義とされると語っているのです。
 私たちは、このルターが明らかにしてくれた聖書理解によって聖書を読み、聖書の言葉を信じて信仰生活をしているのです。けれど、そのはずでありながらも、自分の日常生活の歩み振り返りしっかり見つめると、実は、ちっとも分かっていない私たちであることが分かってまいります。贖宥状を手に入れることによって救われるのではない、と言うことは、そのようなことによっては救われ、安心して歩めるということではないということです。ところが、私たちは、しばしば自分の今日の歩みが幸運であるかどうか、不安無く歩めるかどうかと、それほど真剣ではないつもりかもしれませんが、朝のテレビの星座の運勢を見て、今日の私の星座はこうだったからと、心囚われてしまっていることに気づかないのです。贖宥状ではないのですが、私たちは私の運勢はどうだろうかと、姓名判断や、占い、いろいろなことに心惑わされてしまうのです。もっと簡単な事を言えば、ジンクスなどに囚われるのも、贖宥状によって救われるという思いにすがる原理と同じです。残念なことに私も、直ぐにこのような過ちの中に陥ってしまいます。例えば、私がタイガースを応援してテレビを見ると、負けるから見ないとか。私のタイガース仲間である牧師は、新しい白いパンツを履いて応援に行くと必ず勝つと言うのですが、もう一人の巨人ファンの牧師は、オレンジのパンツを履いて行くと必ず勝つんだ、と言うのです。両方が応援する試合になって、そのジンクス通りにしたらどうなるのでしょうか。ジンクス通りには行かないということが分かっていても、私たちはそんな簡単なことにも心囚われてしまうのです。このような心理に囚われる心は、ジンクスとか、占いという問題だけではなく、私が、神さまの方向に心を向けて歩むのではなく、自分の満たされる歩みを求める罪に惑わされる私の心の罪に深く結びついているのです。
 今日の福音書の日課で、イエスさまは、イエスさまを信じたユダヤ人たちに「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と言われました。真理とは、この後の箇所、146節以下のイエスさまが語られる言葉に出てくる「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と語られているように、イエスさまに出会い、イエスさまに心を向け従おうとする時、私たちは何事にも縛られず、自由に歩むことができるのです。ところが、何度も言いますが、私たちは、直ぐさま自分の肉の心に心囚われてしまいます。例えば、人と比較して、人より自分の優れていることを見つけることによって安心しようとしたりします。そして、そのことによって、優越感意識の中に陥ってしまう。又は逆に、人より劣っている部分に囚われてしまい劣等意識の中にはまってしまうのです。さらには、体調不良が続くような病気が続くと、自分の人生は、病気ばかりする人生だとマイナス思考の中にいつでも引っ張られてしまうのです。又、その逆で、幸いな事が続いて行くと、自分の力でそれを得たように錯覚し、傲慢な思いの中で、人を見下げてしまうのです。聖書は、私たち一人ひとりは全て尊い存在であり、その存在が罪に惑わされ、罪に囚われた不自由さの中で沈んで行くことを良しとされず、罪の奴隷から私たちを救いだそうとしてイエスさまをこの世界にお遣()ってくださったのだと宣言しているのです。十字架の死から復活されたイエスは、罪に勝利されたことを明らかにされ、そのイエスさまに従う時にのみ、私たちは、罪に惑わされながらも罪の奴隷から解放され自由を取り戻す新しい歩みへと、繰り返し導かれるのです。ルターは、聖書を通して、その信仰を私たちに明らかにしてくれたのです。
 今日も、あなたの過ぎた一週の歩みは、心惑わされていたよ。でも、安心しなさい。私があなたの罪を贖い、あなたを自由にし、喜びの道へと歩める神さまの霊である新しい息吹をそぎ入れたよ、とイエスさまは言われています。

 祈り:神さま、過ぎ去った歩みも、私たちは、また優越感にしたったり、劣等感で悩まされたり、不幸をなげいたり、人を批判したり、憤ったり、裁いたり、それどころか不満な心の思いに振り回されてしまいました。しかし、あなたは、そんな私たちを、神さまの新たな息吹によって、新しくつくりかえてくださり、愛で有られるあなたに従った歩みへと導き出し、送り出してくださることを感謝します。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン


トップ