202311日 全聖徒主日

          マタイ福音書5章1~12節 「 恩赦 」 


1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 恩赦という制度があります。皇太子の結婚の儀の時とか、昭和天皇の大葬の儀の時など、特別な日に犯罪を犯して刑務所に入っているうちの何人かの人を減刑して、釈放するという制度です。初めて聞いた時、そんなことしていいのか、と思いました。恩赦で釈放された人が、私は恩赦で釈放された、とても運のいい人間だ、と自慢するような人がいたら、少し腹立たしい思いになります。謙虚に、静かに感謝してほしい、そう思います。福音書の中にも、恩赦の場面が出てきます。過越の祭りの時、犯罪者を一人釈放するという習慣があったようです。ピラトはこの恩赦を使ってイエスさまを解放しよとします。しかし、群衆はバラバの釈放を求め、イエスを十字架にかけるように求めます。そしてバラバが釈放されます。まさにバラバは、イエスさまが身代わりになって十字架につけられ、自分が釈放されていきます。私たちキリスト者は、まさにこのバラバのような存在です。教会の中で、神さまの罪の赦しを字で書くときには、普段使う「許し」ではなく、恩赦の「赦」を使うことが多いです。ですから、本来キリスト者というのは、自分が恵みを受けて赦されたことを自分の手柄のように自慢するものではありません。本来そんなことがあっていいのか、といぶかるようなことを恵みとして受けたものです。すべては貧しいものに手を差し出してくださる、神さまの憐みによるものです。
 復活や最後の審判、という考え方は、イエスさまが現れる以前から芽生えていたといわれています。一つの要因は、今日の日課の最後の部分にでも出てきますが、預言者が迫害され、殉教していくものがいたからだといわれています。イエスさまもそうですが、神のみ心に従って歩んだのに、多くの困難にあい、不幸な死に終わる人がいたからです。逆に、生きている間悪事は表ざたにならず、賞賛の中で死を迎えたが、死後悪事が表ざたになった人もいます。でも、逃げ得はありません。最後に神さまからの裁きがあるからです。裁きとは、悪いことばかりではなく、不当な扱いを受けていた人が、正当な扱いに正されることでもあります。
 キリスト者とは、裁きを受け、罪は明らかにされるが、本来受けるべき罰が恩赦される約束が与えられた人です。この恵みを自分の手柄のように、自慢してはいけません。私たちが指し示すものは、神さまの憐みです。
 私もまだ、最後の審判は受けていないので、見てきたように話すわけにはいきませんが、最後の審判で、約束されたものだけが、恩赦を受けるわけではないと思っています。イエスさまのたとえ話の中に、金持ちとラザロという話があります。ラザロは金持ちの玄関の前で過ごした、貧しく、病を抱えた人でした。別に信仰が正しかったとか、愛に生きた人だと書かれているわけではありませんが、ラザロは死後天国に行き、神の宴に招かれたと書かれています。その理由は、生きている間悪いものをもらっていたからだといいます。
 今日の箇所は山上の説教の始まりのところで、幸いなるかな、という詩が歌われる個所です。この言葉の中には、すぐに納得できる言葉はあります。憐み深い人は幸いである、その人は憐みを受ける。心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る。しかし、すぐに受け入れがたい言葉もあります。心の貧しい人、悲しむ人、身に覚えのないことで迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられる人、そのような人たちがなぜ幸いなのだろうか、と思います。しかし、そのような小さな者たちにこそ、神さまの目は注がれ、慰められ、天の国に招かれるといいます。心の貧しい人、と書かれているこの心と訳されているギリシャは、プネウマティという単語で、霊的という意味です。霊的に貧しい人、信仰に貧しい人が幸いである、神の国はその人のものだといいます。
 申命記7章になぜ神さまが、ユダヤ人を聖なる民にして選んだのかが書かれています。それは、どの民よりも数が多かったからではなく、どの民よりも貧弱であったからだと書かれています。私たちがキリスト者として、選ばれた理由も同じでしょう。誰よりも貧弱で、心の貧しいものであったから。愛に貧しいものだからです。霊的に貧しいものだからです。
 見てきたように言うわけではありませんが、約束されたもの以外でも、人間の目から見ると不思議な理由で恩赦を受ける者がいると思います。神さまは、私たちの思いを越えて憐み深い方です。
 私たちは生きている間に、この不思議な恵みを信じたものであります。この驚くべき恵みを信じたものです。この憐みにお返しする思いで、生きていきたいと思います。


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