2023年11月5日 全聖徒主日 |
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マタイ福音書5章1~12節 「 恩赦 」 | |
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
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恩赦という制度があります。皇太子の結婚の儀の時とか、昭和天皇の大葬の儀の時など、特別な日に犯罪を犯して刑務所に入っているうちの何人かの人を減刑して、釈放するという制度です。初めて聞いた時、そんなことしていいのか、と思いました。恩赦で釈放された人が、私は恩赦で釈放された、とても運のいい人間だ、と自慢するような人がいたら、少し腹立たしい思いになります。謙虚に、静かに感謝してほしい、そう思います。福音書の中にも、恩赦の場面が出てきます。過越の祭りの時、犯罪者を一人釈放するという習慣があったようです。ピラトはこの恩赦を使ってイエスさまを解放しよとします。しかし、群衆はバラバの釈放を求め、イエスを十字架にかけるように求めます。そしてバラバが釈放されます。まさにバラバは、イエスさまが身代わりになって十字架につけられ、自分が釈放されていきます。私たちキリスト者は、まさにこのバラバのような存在です。教会の中で、神さまの罪の赦しを字で書くときには、普段使う「許し」ではなく、恩赦の「赦」を使うことが多いです。ですから、本来キリスト者というのは、自分が恵みを受けて赦されたことを自分の手柄のように自慢するものではありません。本来そんなことがあっていいのか、といぶかるようなことを恵みとして受けたものです。すべては貧しいものに手を差し出してくださる、神さまの憐みによるものです。
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