20231112日 聖霊降臨後第24主日

          マタイ福音書25章1~13節 「 無力の自覚 」 


25:1
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 今日を入れてあと三回の主日で、教会暦が終わります。12月の主日から待降節、アドベントに入ります。待降節は、クリスマスを迎える準備の期間ですが、それと同時に主の再臨を改めて待ち望む季節です。クリスマスの準備も、主の再臨の準備も、いずれもイエスさまと顔を合わせるための準備の期間です。
 今日の福音書の箇所は、十人の乙女のたとえ話、という小見出しがついている個所です。話は難しくはありません。結婚式で花婿を出迎える係として、十人の乙女がとともし火を灯して待っていたといいます。そのうち五人は賢い乙女で、予備の油を持っていたといいます。愚かな乙女は、予備の油を持っていなかったといいます。花婿の到着が予定よりも大幅に遅れ、乙女は十人とも眠ってしまったといいます。真夜中にようやく花婿が到着の知らせが届き、乙女たちは慌てて出迎えの準備をしますが、愚かな乙女たちは油を切らしてしまっています。賢い乙女のほうも、分けてあげるほどには持っていなかった。油を切らした乙女たちは、あわてて店に買いに行きますが、その間に花婿が到着してしまい、結局間に合わない。愚かな乙女たちは、婚宴の宴に出られなかったという話です。主の再臨はいつ起こるかわからない。いつでも、それに備えておきなさい、という話です。
 主の再臨といわれても、教会の歴史の中で、一度も起こったことがないことですから、正直自分が生きている間に、イエスさまの再臨が起こる気がするか、というとちょっとピンとこない、という人もいると思います。ただ、主の再臨は起こる気がしなくても、私たちはいずれ死にます。その時、私たちはイエスさまと顔を合わせることになります。そして、その死は、いつ起こるかわからないものです。その日その時は、私たちは知らないものです。
 それでは、私たちが備えておくべき油とは、一体何を意味するのでしょうか。具体的に、私たちはイエスさまと顔を合わせる時のために、どんな備えをすればよいのでしょうか。ある人は、こう考えるかもしれません。いつイエスさまと顔を合わせてもよいように、日々、信仰的に生きること。良く祈り、よく聖書を読み、愛のわざに励むこと。そのように生きようとすること自体は、悪いことではないでしょう。ただ、覚えておかなければいけないことは、お会いするのがイエスさまだということです。今日の日課の後ろのほうに出てきますが、主人の言葉で「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない。」という言葉が出てきます。山上の説教の中にも、同じ言葉が出てきます。誰に対して言われる言葉か。「主よ、主よ」というものです。「御名によって予言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」という人たちに対してです。見せかけの信仰は、すべて見破られると思っておいたほうがよい。加えていえば、ルターが再確認した聖書の教えは、人間の側のわざによっては救われない。神の恵みのみである、という教えです。では、どうすればよいのか。
 先週礼拝が終わった後、報告させていただきましたが、大腸ポリープがある可能性があるので、再検査するように言われ、検査したところ、ポリープが一つありそれをとりました。そのポリープも良性のものなので、心配する必要はないといわれたことを、報告しました。ホッとしましたが、でも、自分にとってとても良い経験でした。以前の説教でも語りましたが、自分は牧師だし、人のためにずっと祈ってきたから、このようなことは疑似体験している、人よりも死に対して達観している、そんな気でいましたが、とんでもない。だいぶ手前の段階で、結構怖かった。そして、死ぬのが怖いと改めて感じました。そして、「生きたい」と思いました。ただ、どんなに生きたいと願っても、人間には限界があります。どんなに健康に気を使っても、やがて訪れる死は免れられないものです。それに対して、人間は無力です。でも、「無力でありながら、やはり生きたい」もし、再び生かされるとしたら、それは神さまの恵みのみによって起こることでしょう。そのことを常に自覚しておくこと、それがイエスさまに出会うための備えです。賢い乙女は、自分の無力さ、自分の弱さに自覚的だった人たちです。信仰とは、自分の無力さを自覚しながら、神さまは憐み深い方である、という福音、良い知らせを信じることです。自分の究極的な無力さを自覚しながら、神さまの恵みに希望を持って、これからも生かされていきたいと思います。


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