20231119日 聖霊降臨後第25主日

          マタイ福音書25章14~30節 「 託されているもの 」 


25:14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 自分は、何のために生まれてきたのだろう、普段口には出さなくても、人が心の奥深いところに宿している思いです。その問いに、完全に納得がいくような、明解な答えがないことも知っていますが、それでもやまぬ問いです。
 今日の福音書の箇所は、マタイの25章です。26章から十字架の出来事が始まっていきますので、イエスさまが最後のほうに語られたたとえ話です。そのたとえは、主人が旅に出るという話です。イエスさまが去ろうとしているときに、主人が去り、また戻ってくる話をします。
 この主人は自分が旅立つにあたって3人の僕を呼びます。力に応じて自分の財産を託していきます。一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンです。タラントというのは、もともとお金の単位ですが、タレントという言葉の語源になっています。タレントというのは才能のことです。教会では人に与えられている力を、そのままタラントと言ったり、賜物と言ったりもします。神さまは、私たちにそれぞれ才能、タラントを授けてくれた。もしかしたら、それはほかの人より少ないかもしれません。しかし、失敗を恐れてタラントを埋めてしまい、何もしない人生より、たとえ小さくても神さまが与えてくれた力を精一杯使って生きなさい、このたとえはそれを伝えている、そう言われていますし、私も今までそう語ってきました。しかし、このたとえ話には、もう一歩先がある気がします。
 ここで主人が与えたのは、才能、能力ではありません。あらかじめ力は与えられています。あらかじめ与えられている力に応じて、この主人は自分の財産を僕たちに託していきます。私たちには、それぞれの力に応じて、神さまに託されていることがあります。いったい何を託されたのか。このたとえだけを読んでも、それはわからないかもしれません。福音書全体、聖書全体を読まなければわからないのかもしれません。
 主人が僕に託したもの、私たちの主が私たちに託したもの、それは何か。おそらく素直に考えてよいのだと思います。主人が不在の間、僕に託したものは、主人の働きの続きです。イエスさまの働きの続きです。
 イエスさまは、祈り、人に寄り添い、人とともに食事をし、人を癒し、人に仕え、人を愛して、福音を伝えていきました。十字架にかけられながら人を赦し、見返りを求めずに、人を愛していきました。見返りを求めて愛するなら、それは徴税人や罪人でもできることです。愛がいったり来たりしているだけで、この世界に配は増えません。私たちに託されていること、力に応じて託されていることは、見返りを求めずに人を愛すること。私たちの力は小さいので、それほどたくさんを求められているわけではないでしょう。しかし、それはたとえ小さなものでも、地下に埋めてしまってはいけません。見返りを求めず、人を愛する。とても、自分にはできない、そう思うのなら、そのような働きをしている人を応援すればよいと思います。それでも、銀行の利息くらいの働きにはなると思います。
 私たちは生かされている限り、神さまに託されていることがあるのだと思います。私たちの主である、イエスさまの働きのほんの一部を続けることです。無為に過ごす一週間ではなく、人に仕え、神さまに託されている使命を果たしていきましょう。


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