20231126日 永遠の王キリスト

          マタイ福音書25章31~43節 「 神が愛するものに仕える 」 


25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 自己肯定感が高い、低い、という話を時々聞きます。自己肯定感が低いと、何事にも積極的に関われないし、ネガティブに物事を考えがちになる、といいます。ネットで、自己肯定感を高める方法、って調べてみたら、自分の長所や良い経験を思い出して言語化するとか、自分に対して応援してくれたり、肯定的に関わってくれる人を周りに作る、と出てきました。でも、本当に、自分で自分の自己肯定感を高める方法なんてあるのかな、とも思ってしまいます。自分の長所や、良い経験を思い出す、といっても、これは自己肯定感を高めるためにやっているんだ、と心の片隅で思っていたら、自己暗示かけてます、って思いながら暗示にはかからない気もします。周りに肯定的な人を作るといっても、そんなにいつも、自分を肯定してくれる人なんて、まあ、いない。じゃあ、こんな話を聞くのは無駄なのかというと、決してそうではないと思います。すぐには全部は改善しなくても、自分の心の癖に気づいて、また、悪いこと、悪いほうに物事を考えているな、と思ったら、長所や良い経験も思い出してみる。自分をずいぶんと否定してくる人とは距離を置いて、比較的肯定的に関わってくれる人との時間を積極的に持つ、そういうことならできると思います。
 今日の福音書の箇所は、解き明かす必要のないくらい、よくわかる話です。人の子が再び現れる時、すべての国民を集め、右と左に分ける。右の人には、私が飢えていた時には食べさせ、渇いていた時には飲ませ、旅の時には宿を貸し、裸の時には着せ、病気や牢に入っていた時には訪ねてくれた。そう語りますが、右の人はいつあなたにそうしたでしょうか、と問い返す。王に直接したわけではないが、王の愛する国民のもっとも小さなものにしてくれたのは、私にしてくれたのと同じくらいうれしい、そう語ります。左の人には、それをしてくれなかったといいます。左の人は、王様にはいつだって助けたといいます。しかし、王様は、自分にはしてくれても、私の愛する国民の中のもっとも小さなものにしてくれなかったのは、自分にしてくれない以上に悲しい、そう語ります。神さまに仕えるというのは、小さなものに仕えることを通してなされていきます。それはキリスト者ではなくても、災害にあった人などのために、献金をしたり、ボランティアをしたりする人が出てきます。この話は、まったくその通りだと思いながらも、胸が痛む話でもあります。偉い人には気を遣うが、困っている人を見ても、見てみないふりをして通り過ぎることがあるからです。
 この個所は、元旦礼拝で毎年読まれる個所です。読むたびに思います。今年は、偉い人にばかり、偽善的なふるまいをするのではなく、小さなものに仕えていこうと。でも、こうも思います。去年の元旦も、同じように思ったな、と。でも、相変わらずだったなと。
 じゃあ、このみ言葉を聞く意味なんかないのかというと、そんなことはありません。偽善的なふるまいをしている、自分に気づきやすくなる。困っている人すべてを助けることはできませんが、半歩だけ、前に出られるようになります。
 開き直るわけではありませんが、すれ違う、困りごとを抱えている人全部を助けようとするなら、外に出られなくなってしまいます。この直前の話、タラントのたとえ話と併せて読むならば、力に応じて助けるべき人が、それぞれに与えられているのかもしれません。
 他の本には出てこない、自己肯定感を高める方法が聖書には書かれていると思います。天に富を積むことです。その富は腐ることも盗まれることもないといいます。人の見ていないところで、人を助けることです。小さなものに仕えていくことです。人のために祈っていくことです。褒められるためでもない、人に自慢するためでもなく、人を助けることができたとき、神さまはそれを見ていてくれ、肯定してくれ、天に富を積んでくださいます。自分みたいな人間も生きていていいんだな、そんな思いが得られます。自分を肯定できます。この一週間も今の力に応じて、小さなものに仕えていきたいと思います。


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