20247日 主の洗礼

          マルコ福音書1章4~11節 「 愛されて始まる 」 


1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
 1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 お正月から、能登半島で地震がありました。その翌日2日には、羽田空港で事故がありました。この一年がどんな一年になるのかと、心配になった人もいたと思います。
 今日は主の洗礼、という主日で、イエスさまの洗礼を覚える主日です。主日礼拝でいえば、今日は今年最初の主日礼拝ですし、クリスマスを終え、大人となったイエスさまの登場場面であり、公生涯のスタートが、イエスさまの洗礼です。
 マルコでは、イエスさまの洗礼が実に簡潔に描かれています。9節から11節ですが、ナザレから来て、ヨハネから洗礼を受けた。すると天が裂けて霊が鳩のように自分に下ってくるのが見えた。そして、神の声が聞こえ、

「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」

 という声が聞こえた、という場面です。この場面は、詩篇2編とイザヤ書42章からの引用ではありませんが、響きあう場面だといわれています。詩篇2編では神さまに選ばれた王に関する詩篇で、イザヤ書では、第二イザヤと呼ばれる始まりの部分で、神さまに選ばれた僕の話です。イエスさまは王であり、僕です。しかも、第二イザヤの僕はイザヤ書53章に描かれる苦難の僕に繋がっていく僕です。イエスさまの公生涯の始まりは、苦難と栄光の始まりです。
 苦難と栄光に満ちた旅の始まりに、父なる神は、イエスさまに一つのみ言葉を与えます。

「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」

 特に受難の道を歩むとき、思い出さなければならないことは、神さまに愛されたものであり、この道は神さまのみ心に適った道である、ということでしょう。
 私たちも、この洗礼を受けたものです。あるいは、この洗礼に招かれているものです。信仰生活は決して、良いことばかりではないでしょう。苦難の道、受難の道を歩むこともあります。その時に思い出さなければならないことは、自分は神さまに愛されて洗礼を授かったもの、自分は神さまのみ心に適って洗礼を授けられたもの。比較にならないほどの受難の道を、イエスさまも歩んだということです。
 他の福音書を読むと、イエスさまの受洗の場面で、ヨハネのほうが戸惑いを覚えた姿が描かれています。悔い改めの洗礼を受ける必要のない方だからです。しかし、イエスさまは罪人である私たちと同じ道を歩むために、私たちとともに洗礼を受けてくださった。ヨハネにとって、自分よりも優れた方が来るといっていた、その人は、罪人である人たちの中に、悔い改める人の中に、悔い改めの洗礼を受ける者として現れました。私たち罪人共に歩むためです。マタイによる福音書の最後で、イエスさまは弟子たちに、すべての民を私の弟子にし、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい、そう語っていますが、その言葉とともに、マタイ福音書の最後の言葉として、

 私は世の終わりまでいつもあなたと共にいる

 と語っています。この一年がどんな一年になるかはわかりません。何の苦労もない一年になるわけはありません。でも、揺るがないことは、あなたが神さまに愛され、御心に適って洗礼を受けたものであること、あるいは、礼拝に招かれ、洗礼に招かれているものであることです。そして、イエスさまが共にいると約束されたこともゆるぎません。どんな一年になったとしても揺るがないことです。まだ起きていないことに思い煩う必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩む、といいます。一日一日を大事に歩みましょう。イエスさまとともに、新しい旅を始めましょう。


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