202414日 顕現後第二主日

          ヨハネ福音書1章43~51節 「 知っている 」 


1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 能登半島の地震で、被害の実態が少しずつ明らかになるにつれて、やはりこんなにひどかったのかと、気が滅入る情報が連日報道されています。ただ、元旦に石川県で大きな地震が起こった、という速報が入り、最初に考えたことは、石川県に知り合いがいただろうか、ということでした。友人のパートナーが石川県の出身で、そのご家族は大丈夫だっただろうか、と考えました。知らない人も助かってほしいと思っています。でも、やはり知り合いやその関係者には、思いが強くなります。
 今日の福音書の箇所は、イエスさまと弟子たちが出会っていく場面です。まずイエスさまはフィリポと出会い、私に従いなさい、といわれ従っていきます。実際には、もっと沢山の会話があったと思います。しかし、福音書記者ヨハネにとって大事なのは、イエスさまが声をかけ、それに従った、ということ。しかも何となく従ったのではなく、ナタナエルに紹介するときには、モーセや預言者が語っていた方に出会った、そう語っています。こんなに短期間に心酔するのは、やはり不思議を覚えます。しかし、私たちにも似た経験があります。今私は幼稚園で、乳児、赤ちゃんと遊んでいます。まだ言葉が出ない子がほとんどですが、赤ちゃんごとにそれぞれに大好きな先生がいます。一目会ったその日から、なぜか好きな先生がいるようです。大人同士でもあります。好きなアーティストに出会った時も、好きなアイドルや俳優に出会った時も、雷に打たれるような出会い方をすることがあります。
 言われたナタナエルはフィリポに「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と返しています。フィリポは言葉を重ねず、「来て、見なさい」と答えます。ナタナエルがイエスさまのほうに近づくと、ナタナエルを見たイエスさまのほうが、

 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

 そう語ります。イエスさまがどのような意味で「まことのイスラエル、この人には偽りがない」といったのか、聖書は詳しく語りません。しかし、この短い文書の中でも、分かることがあります。ナタナエルはとても素直だということです。ナザレから良いものが生まれるだろうか、そう言いながら、イエスさまと出会って間もなく、あなたは神の子です。そう語っています。前言撤回です。素直に自分の過ちを認め、前言を撤回する。大きな事には見えないかもしれませんが、人間の罪の根源に触れるほどのものです。素直に過ちを認め、自分の意見を変える、これができる魔法があれば、どれだけの争いがなくなるだろうと思います。親子の間でも、兄弟の間でも、夫婦の間でも、友人との間でも、互いに素直に過ちを認め、自分の意見を変える、それができれば、どれだけ争いがなくなるだろう、と思います。国と国の間、民族と民族の間でもそうです。
 ナタナエルは素直に自分の意見を変え、イエスさまを神の子、イスラエルの王だと語ります。きっとナタナエルは嬉しかった。自分がイエスさまを知る前から、イエスさまが自分を知っていてくれたこと。誰もが言ってくれる、自分の長所もあります。でも、秘かに隠し持っている自分のいいところを、誰かが気づいてくれた時、あるいは、自分すら気づいていなかった自分の良いところを誰かが気づいてくれた時、不思議な喜びが与えられます。良いところに気づかれなかったとしても、誰かが自分を知っていてくれる、それだけで人は嬉しいものです。知っているって、愛し始めていることだからです。知らない被災者も心配だけど、知っている被災者はもっと心配です。羊飼いは、羊の名前を呼ぶといいます。全部見分けて、名前がついている。だから、一匹が逃げても探しに行く。ただ一匹いなくなったのではなく、自分がよく知るメリーがいなくなったからです。
 フィリポがイエスさまを知る前に、イエスさまのほうがフィリポを知っていました。ヨハネの手紙は語ります。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪をあがなういけにえとして、御子をおつかわしになりました。ここに愛があります

 と書かれています。ふと、イエスさまとで顔を合わせる時、私はイエスさまが分かるのだろうか、と思うことがあります。実際にはわかりませんが、ただ、一つ言えることは、イエスさまの方はあなたのことをよく知っているということです。知っているということは、より大事に思えているということです。イエスさまに知られ、イエスさまに愛されていることを信じて、それに応える一週間を送りましょう。


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