202421日 顕現後第3主日

          マルコ福音書1章14~20節 「 神さからの呼びかけ 」 


1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1:16
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 二組の兄弟が、イエスさまに声をかけられ、船を捨て、仕事を捨ててイエスさまについていく。何度も聞いた話なので、あまりに疑問に思わなくなっていますが、よく考えると大きな決断だと思います。なぜ、この四人はすべてを捨ててイエスさまに従ったのか、本人に聞いてみなければわかりませんが、もしかしたら本人も分からないかもしれません。
 先週読んだ本で、國分功一朗さんという人が書いた「目的への抵抗」という本を読みました。帯には「自由は、目的を越える」と書いてあります。特別講義の、講義録なんですけど。この講義のきっかけは、コロナの最中、不要不急の外出は避けてください、という国からの呼びかけに、多くの人が抵抗なく従った様子を、イタリアの哲学者アガンベンという人が「この状況おかしいだろ」と発信して、炎上したことがきっかけだったようです。國分さんの主張は、もう少し柔らかい印象なんですけど。ここでいわれている目的というのは、生き残ることです。アガンベンさんは、結構教会にも呼び掛けているんです。教会の教えは、生き残ることが目的ではなく、十字架にかかって人を助けたイエスさまを神の子としているじゃないかというんです。ただ、ただ生き残るだけが目的の人生はどうなんだといっているんです。
 國分さんは、もう少しマイルドで、自粛要請自体は悪いことじゃないし、目的を持つことも生きている間は避けられないだろうというんです。でも、目的に縛られすぎてはいけないといいます。人間は目的に向かって、最短で最小限の力で到達しようとしてしまうといいます。コスパ、タイパといいますけど、なるべくコスト少なく、なるべく短い時間で、気づいたら無意識のうちにそこにばかりとらわれていることがあります。そうなると、味気ない道になります。味気ない人生になります。
 國分さんのこの本を読んで思い浮かべたのが、ブランコをしている子どもの姿です。黙っていたら何分でも、ブランコをこぎ続けている子どもがいたりします。何も目的のない遊びです。どうやら、ブランコは体幹にいいらしい、という話を聞いたことがありますが、そのためにやっているわけではありません。体幹のためにブランコ100回って言われたら、途端につまらなくなります。むしろ、苦痛に感じます。
 最短で最小限の力で目的を達成する。そこにとらわれすぎると、その道を楽しめなくなります。ただただ、死なないように生きる。そこにとらわれすぎると、人生という道のりが、味気なくなります。
 召命という言葉があります。孝洋先生は、神学生として召命感といつも向き合っています。ただ、牧師になる人だけが召命を受けているわけではありません。私たちは日常の中で、神さまに呼びかけられている、と感じることがあります。コーリングと呼ばれるものです。善きサマリア人が、強盗に襲われたユダヤ人を見て、通り過ぎようと思ったかもしれませんが、憐れに思って助けたといいます。あれが小さな召命です。無視して通り過ぎた方が、タイパも、コスパもいい人生です。時間も取られず、余計なお金もかからない。でも、味気ない人生かもしれません。
 ただ、死なないために生きている、そんな風になってしまう時があります。どうせ生まれたのですから、どうせ生きているのですから、無駄のない人生ではなく、豊かな人生を送りたい。なぜか気になることがあるのなら、神さまに呼び出されている、と感じるものがあるのなら、無駄を承知でそれに応えた方が、人生に色味が出てくるかもしれません。漁師を続けるのも人生でしょう。でも、この弟子たちは、イエスさまに呼びかけに答えました。大切なのは、イエスさまの方が選んで、呼びかけている、ということです。この後、この弟子たちは、決して順風満帆にはいきません。無理解さを見せ、十字架の時には逃げていく弟子です。イエスさまは、すべてを承知で、声を掛けました。すぐにうまくはいかないかもしれません。でも、神さまに呼びかけられた、と思ったら、その時は神さまが自分を選んで声をかけた、ということを拠り所とすればよいと思います。信仰は、自分で選んだように見えますが、神さまのほうがあなたを選んで、それまでの導きを与えました。信仰は、神さまの呼びかけに答えたしるしです。その後のできの悪さも承知でです。でも、神さまはあなたを愛した。
 神さまの慈しみ深い声に応えるような、一週間を始めていきたいと思います。


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