202417日 四旬節第5主日

          ヨハネ福音書12章20~33節 「 心騒ぐ 」 

20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。
 27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 聖書に出会う前、全知全能である神さまは、死ぬことができるのだろうか、死を知っているのだろうか、そんな風に思ったことがあります。死を知るというのは、知識として「死」というものを知っている、という意味ではなく、死を味わったことがあるのだろうか、そう思いました。おそらくその時、死ぬのが怖かったんだと思います。今日の福音書の日課で、27節にこんな聖句が出てきます。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28 父よ、御名の栄光を現してください。」

 何度も弟子たちに十字架と復活を予告していたイエスさまですが、いよいよその時が来たときに、少し揺らいでいるように見えるイエスさまがいます。共観福音書には、ゲッセマネの祈りの姿が描かれています。この杯を、つまりこの十字架を取り除いてください、そう祈っているイエスさまの姿です。 
 
イエスさまの思いを推し量ることはできませんが、やはり恐怖があるように見えます。ゲッセマネの祈りでは、わざわざその姿を3人の弟子に見せようとしているようにも見えます。
 死は平等です。支配者も支配される人も、偉い人も偉くない人も、豊かな人も貧しい人も、頑張った人も頑張っていない人にも、平等に訪れます。それは神の子であっても、この世界で肉体を受けたなら、必ず死にます。そこには恐怖があるのかもしれません。イエスさまは、父なる神の声を求めます。すると神の声が聞こえ、

 わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 今日の箇所の直前に、ラザロの復活が記されています。その時栄光を示したが、再び栄光をあらわそう、といいます。父なる神の栄光とは、死者に再び命を与えることです。
 一粒の麦は、地に落ちなければ、一粒のままだといいます。しかし、死ねば多くの実を結ぶ、といいます。イエスさまは言います。

32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 イエスさまの十字架と復活は、イエスさまだけで終わるわけではないようです。その一つの死は、多くの実を結び、すべての人をイエスさまのもとに引き寄せる働きをするといいます。
 死は恐ろしいものです。信仰があってもです。イエスさまでさえ、揺らいでいるように見えます。椎名麟三という作家は、洗礼を受けたとき、「これでじたばたして死ねる」といったそうです。神さまから与えられている約束を胸に、安心して、じたばたしながら生きていきたいと思います。


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