2024年3月31日 主の復活 |
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マルコ福音書16章1~9節 「 神の裁き 」 | |
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 |
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昔いたずらして、こっぴどく叱られた話なら、後に笑いながら話す日が来るかもしれません。しかし、見つからなかった悪さ、逃げおおせた悪さって、自分の胸に引っかかり続けたりします。ドストエフスキーの「罪と罰」という小説は、それがテーマになっている小説です。裁かれない罪は、自分一人で背負っていかなければなりません。しかし、裁かれ償った罪は、そこから前へ進むことができます。 「イエスさまは復活して、ここにはおられない」 と告げられます。そして、弟子とペトロにあの方はあなた方より先にガリラヤに行っておられる、そのことを告げるように言われます。すると、 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
マルコによる福音書は、一旦ここで終わっています。それ以降は、後に継ぎ足されたものだといわれ、新共同訳ではカッコ書にされています。しかし、付け足されたのもよく分かります。こんな終わり方は、バッドエンドか少なくとも、宙づりにされているような気持になります。一番最初に書かれた福音書は、マルコによる福音書だといわれています。マルコ福音書しかない状態で、この福音書がここまでで終わっていたら、どんな気持ちになるだろうと思います。復活したイエスさまは、逃げたり、裏切ったりした弟子たちとガリラヤでどんな態度で再会するのだろうと思います。私たちは他の福音書も読んで、イエスさまがすべてを赦し、変わらぬ愛で接してくれることを知っています。しかし、この時点では、婦人たちも、弟子たちもそれが分からない状況です。罪の赦しがない、復活は、恐ろしくもあります。
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