202431日 主の復活

          マルコ福音書16章1~9節 「 神の裁き 」 

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
  彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 昔いたずらして、こっぴどく叱られた話なら、後に笑いながら話す日が来るかもしれません。しかし、見つからなかった悪さ、逃げおおせた悪さって、自分の胸に引っかかり続けたりします。ドストエフスキーの「罪と罰」という小説は、それがテーマになっている小説です。裁かれない罪は、自分一人で背負っていかなければなりません。しかし、裁かれ償った罪は、そこから前へ進むことができます。
 今日は復活祭。教会だよりにも書きましたが、復活は信じがたいことです。聖書自体が、そのことを示しています。信仰を持たない人、あるいは信仰に触れ始めた人は、復活は後に弟子たちが作った話、という印象を持ってもおかしくないと思います。しかし頭の中だけで、救い主が復活する、そんな物語を作ろうとすれば、聖書に書かれている話より、きっともっと美しい話にすると思います。
 安息日が終わると朝早く女性たちが、イエスさまの遺体に、香油を塗りに行きます。金曜日にイエスさまは十字架から降ろされ、安息日が始まる日没前に、あわただしく葬られたからでしょう。しかし、洞穴式のお墓には、大きな石で蓋をしてありました。その石をどうやってのけるか、話し合いながら近づいていくと、すでに石が転がされて墓穴が開いていました。イエスさまの遺体があるはずの墓穴がのぞいてみると、生きている若者が座っていたといいます。その若者は、

「イエスさまは復活して、ここにはおられない」

 と告げられます。そして、弟子とペトロにあの方はあなた方より先にガリラヤに行っておられる、そのことを告げるように言われます。すると、

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコによる福音書は、一旦ここで終わっています。それ以降は、後に継ぎ足されたものだといわれ、新共同訳ではカッコ書にされています。しかし、付け足されたのもよく分かります。こんな終わり方は、バッドエンドか少なくとも、宙づりにされているような気持になります。一番最初に書かれた福音書は、マルコによる福音書だといわれています。マルコ福音書しかない状態で、この福音書がここまでで終わっていたら、どんな気持ちになるだろうと思います。復活したイエスさまは、逃げたり、裏切ったりした弟子たちとガリラヤでどんな態度で再会するのだろうと思います。私たちは他の福音書も読んで、イエスさまがすべてを赦し、変わらぬ愛で接してくれることを知っています。しかし、この時点では、婦人たちも、弟子たちもそれが分からない状況です。罪の赦しがない、復活は、恐ろしくもあります。
 復活が意味することの一つは、神さまの裁きから逃れることができないということです。神さまを殺すことはできませんし、自分の死で逃げ切ることはできないということでもあります。しかし、裁きは、悔い改めの最後のチャンスかもしれません。裁かれるなら、早く裁かれた方が前に進めるかもしれません。
 礼拝の始まりは、懺悔です。裁判で真実が明らかになる、などと言ったりしますが、人間のする裁判は、えん罪があったり、証拠不十分で裁かれないこともあります。しかし、神さまはすべてを知っておられる方です。腹をくくって神さまには懺悔することです。そうすればそこから前へ進めます。福音の中心には、復活の命とともに、罪の赦しがあります。償いは、イエスさまか代わって受けてくれています。神の国は来ています。悔い改めて福音を信じましょう。これがイエスさまの最初のメッセージであり、最後のメッセージです。悔い改めて、赦され、前へ進みましょう。


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