2024日 復活節第2主日

          ヨハネ福音書20章19~29節 「 大きな愛 」 

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

  何かを好きになると、自分の心が振り回されることがあります。寂しくなったり、悲しくなったり、嫉妬したり、腹が立ったり。4月の始まり、幼稚園では新しく幼稚園に通い出す子がいます。まず母親との別れに悲しみます。自由遊びの時間が終わって、兄弟が違う教室に行ってしまうことで悲しみます。ようやく信頼できる先生ができても、もっと手のかかる子が入ってきて、その子に先生を奪われることで、腹を立てたり悲しんだりします。それは大人になっても、愛する人ほど腹立たしく感じたり、分かれの悲しさを知って、自分にとってこんなに大きな存在だったことに初めて気づくこともあります。
  現在は復活節、イエス・キリストの復活の出来事に触れていきます。弟子たちは、女性たちから、イエスさまが復活されたこと、復活したイエスさまに出会った話を聞きます。しかし、弟子たちは信じきれないでいました。ただ、不思議なことに、あの逃げていった弟子たちは、なぜか同じ部屋にいます。エマオに向かって棄教していく弟子たちもいましたが、使徒と呼ばれる弟子たちは、同じ部屋で過ごしています。イエスさまに対して、まだ断ち切りがたい思いがあったのかもしれません。失ってみて、イエスさまの存在の大きさを改めて感じたのかもしれません。この部屋には鍵がかかっていたと、聖書はわざわざ書き記しています。ユダヤ人たちを恐れたのかもしれません。弟子たちの心閉ざす姿を象徴したのかもしれません。その鍵のかかった部屋に、イエスさまが現れます。逃げたり、裏切ったりした弟子たちに、以前と変わらず接してくれます。「あなた方に平和があるように」ヘブライ語ではシャロームです。日常的に使われている挨拶です。ただ、日常的に使われている挨拶ですが、その挨拶が、「平和があるように」という言葉だと聞くと、今のパレスチナの状況を考えると、深い意味を持つ気がします。そして、この時の弟子たちにとっても、ただの挨拶ではない、心騒ぐ弟子たちに、平安を祈ってくれる言葉に聞こえます。イエスさまは、この言葉を二度繰り返したと書かれています。弟子たちは主を見て、喜んだ、と書かれています。
 しかし、ここで一人だけ不在の使徒がいました。トマスです。トマスは復活したイエスさまに出会ったことを兄弟弟子から聞きます。しかし、トマスは信じないといいます。自分が釘痕を見て、指を傷に入れ、脇腹の傷に、この手を入れるまでは信じないといいます。よく疑り深いトマスといわれますが、私は腹の中では全く疑っていなかったと思います。3年ほど共に過ごしたこの兄弟弟子が、わざわざ口裏を合わせて、復活したイエスさまに会ったなどという質の悪い嘘を言っているわけはない、そのことは強く感じていたはずです。ではなぜ、トマスは信じないといったのか。復活したイエスさまとの再会が、自分だけがいない時に行われたからです。トマスは嫉妬したんです。トマスもイエスさまに再会したかった。トマスはイエスさまを愛していました。だからこそ、自分だけがいない時に現れたイエスさまを憎んだ。釘痕に指を入れ、脇腹の傷に手を入れる、それはイエスさまにもう一度痛みを与えることです。人は、愛するがゆえに憎み、愛するが故に悲しむ。
 すると8日後、私たちの数え方でいえば、七日後、一週間後の日曜日です。弟子たちは同じ状況を作る。同じ部屋で、今回も鍵をかける。今回はトマスもいます。するとそこにイエスさまが再び現れます。そして釘痕に指を入れるように、脇腹に手を入れるように促します。もちろんトマスは、そんなことはしません。

「私の主、私の神よ」

 そう語ります。イエスさまの大きな愛で、トマスと再会します。弟子たちの裏切りも、弟子たちの逃亡も、トマスの暴言も、すべてを赦す大きな愛です。ここに最初の礼拝があります。礼拝は、イエスさまの大きな愛に出会う場所です。弟子たちは、ここから派遣されていきます。22節に

20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 私たちは、イエスさまが私たちを赦されたように、大きな愛で人を赦すために派遣されます。私たちがイエスさまから託されている使命は、人を赦すことです。罪人こそ大きな愛で、愛しなおすことです。そのために聖霊を受けなさい、と息を吹きかけています。エリシャがエリヤの霊を引き継ぎ、働きを引き継いだように、私達もイエスさまの霊を引き継ぎ、働きを引き継いでいます。聖霊は、私達に、人を赦す力を与えるものです。
 私たちは時に、人を愛するゆえに傷つけたり、愛するゆえに恨んだりします。しかし、それでも変わることのない大きな愛で、イエスさまは私たちを赦し続けてくださいます。私たちの思いではなく、私たちの体に宿る聖霊によって、人を赦し、人を愛するために派遣されていきましょう。


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