202414日 復活節第3主日

          ルカ福音書24章36~48節 「 神の意志 」 

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

  人というのはままならないものです。それは、神さまが人間に意志を授けたからです。謝ったからと言って、必ず相手が赦してくれるとは限りません。相手には意志があるからです。自動販売機であれば、お金を入れて、ボタンを押せば、所定のものが出てきます。AIやコンピューターも、基本的には命じられたことを行います。しかし、人間には意志があるので、命じても、その通りにしてくれるというわけではありません。だからこそ、人は神の戒めに背きます。神さまとの約束を破ります。
 4月になると、新しい子が幼稚園に入ってきます。子どもたちにも、一人一人意志がある。幼稚園に行きたくない。おかたずけしたくない。今、お友達が使っているおもちゃをどうしても使いたい、とても強い意志を感じます。意志と意志がぶつかって、喧嘩になったりします。
 今日の福音書の箇所は、ルカによる福音書の復活の場面です。この福音書のほぼ最後の場面ですが、この福音書には、続きがあります。使徒言行録です。ルカも、使徒言行録も、出だしを読むと、同じテオフィロという人にささげて書かれたものであることが分かります。使徒言行録の冒頭の場面で、今昇天しようとしているイエスさまに向かって使徒が、  

 イスラエルのために国を立て直してくれるのはいつですか。

 と尋ねています。この時点でも、使徒たちの期待と、イエスさまの差し出す救いがすれ違っています。使徒たちも、おそらくほかのユダヤ人も、イスラエルの立て直しを救い主に求めました。しかし、イエスさまが差し出した救いは、それ以上のもので、死からの救いでした。
 死は、人間に立ちはだかる大きな壁です。旧約聖書の中に、コヘレトの言葉という書物がありますが、空しい、空しいという言葉が繰り返されていきます。何が空しいのか、お金持ちも貧しい人も、知恵のある人もない人も、頑張った人も頑張らなかった人も、結局みんな死ぬ。だから空しい、と繰り返されます。
 私たちの心の奥底に、常に宿している問いがあります。自分は何のために生まれて、何のために生きているのか。アンパンマンのテーマ曲の歌詞みたいですが、明確な答えなど、分からないと思っていても、心の奥底にあり続ける問いです。
 聖書を読む動機の一つも、そこにあったりします。聖書を読めばその答えが分かるのかというと、それは分かりません。ただ、聖書が教えていることがあります。それは、人間にも意志があるように、神さまにも意志があるということです。機械仕掛けのような神さまではないので、これをしたら、必ずこれをしてくれる、という自動販売機のような存在ではありません。意志があり、ノアの家族以外の人類を一度滅ぼしたりもしています。他人もままならない存在ですが、神さまもままならない存在です。意志を持った存在だからです。しかし、意志がある、というのは決して厄介なことばかりではありません。お金を入れて、ボタンを押さなくても、のどが渇いている様子を見て、頼む前から水を差し出してくれる人がいます。それは自動販売機にはできないことです。意志を持った存在にしかできないことです。聖書が証ししていることは、神さまには、人を救おうという強い意志があるということです。それも、ローマからイスラエルを解放しようという救いではなく、死と罪から、人を救おうとしています。意志に愛が宿るとき、そこには思いを越えた救いが起こっていきます。死から救いを与える存在がいるとすれば、それは最初に命を創り出した存在でしょう。
 なぜこの世界があり、なぜ自分が生まれてきたのか、それはいまだにわかりません。ただ、それを知っている存在がいます。意志を持って、この世界を創り、意志を持って、命を作り、意志を持ってあなたを作った存在です。その方は、あなたにも意志を授けました。手品の仕掛けは分かりませんが、その仕掛けを知っている人がいる、なぜか不思議と、少しだけ安心します。ある神学者が、イエスさまの十字架と復活以来、生と死は、「人間の謎」から、「神さまの秘密」に変わったといいます。その秘密は分かりませんが、訳あってこの世界は存在し、訳あってあなたが存在している、そのことは信じることができます。あなたを望んで作られた神さまの愛と、神さまの救いの意志を信じて、この世の旅を続けていきたいと思います。


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