202421日 復活節第4主日

          ヨハネ福音書10章11~18節 「 私が良い羊飼い 」 

10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる 10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

  信仰とは、信じるものです。必ずしも、全部理解できないものです。理解はできないが、全然分からないものでもありません。理解はできないが、分かることがあります。
 今日の福音書は、「私は良い羊飼いである」という言葉から始まっています。岩波文庫に、塚本虎二という人が訳した福音書があります。その中では、「わたしが良い羊飼いである」そう訳されています。原文では、省略できる主語が書かれています。主語を強調するときに書かれます。おそらくそれで、塚本は、「私が良い羊飼いである。」そう訳したのだと思います。私は、と、私が、というほんの少しの違いですが、意味は大きく変わる可能性があります。もしかしたが、ここでイエスさまは、わたしだけが、本当の羊飼い、良い羊飼いである、そう伝えようとしているのかもしれません。
 イエスさまの教えは、特別なものです。本物の愛から出た教えだからです。今までの歴史の中で、何度も何度も、自分こそがイエスさまの再臨、イエスさまの再来、そう自称したものがいました。言うだけなら、わたしだって言えます。しかし、本来そう簡単には言えないものです。それは、十字架にかかれないからです。羊のために、命を捨てられないからです。口では言えます。私も羊のために命を捨てますと。覚悟も本物かもしれません。しかし、ペトロはたとえ共に死ぬことになっても裏切らない、そう語りながら、裏切りました。弟子たちも逃げました。死ぬのは怖いものです。その覚悟はあったとしても、いざとなったら逃げるかもしれない、私は牧師ですが、そんな自分がいます。
 教会の歴史の中には、殉教していくものがいました。信仰のために、命を捨てた人です。あの逃げたペトロも、最後には殉教したといわれています。キリスト者以外にも、人を助けるために、自分の命を落としたものがいます。ドラマや映画の中でも時々あります。そんな場面を見て、そんな本当の話を聞いて、私たちはどうなるか。結構な確率で、感動します。涙が出ることもあります。
 雇われの羊飼いは、オオカミが来ると、危険が来ると逃げる、といいます。それを情けないとは思いません。ここにいる方で、羊飼いを始める人がいたならば、私は言います。危険があったらすぐに逃げてください、と。
 しかし、イエスさまは言います。私が良い羊飼いである。わたしだけは、わたしのみは良い羊飼いであると。私は羊のために命を捨ているといいます。それができるのは、命を司る父なる神を信頼しているからです。命を捨てることも、再び受けることもできるといいます。それに加え、イエスさまは誰よりも羊を愛しているからです。父なる神と、子なる神であるイエスさまとに通い合うような愛情を、イエスさまは羊にも抱いているからだといいます。その羊とは、あなたのことです。加えて、まだ囲いの中に入っていない、他の羊もいるといいます。
 イエスさまの教え、イエスさまの導きは特別です。本当の愛を持っているからです。羊のために命を捨てる羊飼い、罪人のために自分の命を差し出すイエスさま、それは私たちにとって、理解を越えた言動です。理解はできないが、感動的な言動ではあります。イエスさまの言動は理解できませんが、イエスさまが本当の愛を持っていることは分かります。イエスさまの教えや導きは、時には理解できないこともありますが、信頼していいことは分かります。
 わたしは良い牧師ではありませんが、イエスさまは良い羊飼いです。イエスさまのみが良い羊飼いです。イエスさまに守られ、イエスさまに導かれて、この世の旅を続けましょう。


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