202421日 聖霊降臨後第9主日

                  マルコ福音書6章30~34 53~56節 「 呼びかけと応え 」 

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

  学生時代、時々テレビゲームをしていました。野球とか、プロレスとかのゲームです。自分一人だけで遊ぶときは、コンピューターと対戦します。最初のうちは勝てませんが、自分が操作に慣れてきて、パターンが分かってくると、大体勝てるようになっていきます。レベルを上げると、最初のうちは勝てませんが、それもそのうち勝てるようになり、最後には負けなくなります。そうなると、だんだんつまらなくなります。でも、全然違うものがあります。人間と人間で戦った時です。相手がどう出てくるか分からない。癖やパターンが見えてくることありますが、そこをついていくと修正してきたりします。急に意外なやり方でやってくる人もいます。人とやると、どう出てくるか分からない。人とやると勝てると嬉しいし、負けるととても悔しかったりします。
 今日の福音書の箇所は二か所に分かれています。前半で、イエスさまは弟子たちに人里離れたところに行って、休もうといいます。しかし、計算通りにはいきません。イエスさまたちが出かけていったのを見て、多くの人が追いかけたといいます。休もうと思っているのに、迷惑な話です。しかし、イエスさまは追いかけてきた人を見て、まるで飼い主のいない羊のようだと深く憐れたまれた、と書かれています。そしてイエスさまは、教え始めていきます。
 後半の話も、似た話で、再び船に乗り、ゲネサレトという土地に行きます。イエスさまが来た、という噂を聞きつけて、多くの人が病人を連れて、イエスさまのところに来たといいます。そして病気は癒されていったといいます。

もうほとんどの方が知っていると思いますが、先週吉田叡子さんが天に召されました。教会で葬儀が行われましたが、その葬儀に2か月の赤ちゃんが来ていました。叡子さんの初めてのひ孫さんです。火葬場で、叡子さんがそのひ孫さんを初めて抱っこする動画を見る機会がありました。抱っこして、ああ、笑ってる、とか泣いちゃったとか、一喜一憂しているあの明るい叡子さんの姿がありました。いつの映像か分からないのですが、2か月の赤ちゃんなので、2か月以内の映像です。普通に元気そうに見える映像でした。胆のうがんは数年前から患っていましたが、調子のよい時に礼拝に来られていたので、わりと元気そうな姿しか見ていませんでした。今月のはじめに電話で話したときは、少し調子が悪そうで、次に病院で検査に行くことになっている9日に、そのまま入院しようと思っている、と言っていました。9日に入院しましたが、救急車で運ばれて、というわけではなかったので、もう少し元気でいてくれると思っていました。
 今日の聖書の箇所で、イエスさまによって多くの病人が癒されたといいます。しかし、当然のことですが、その人たちもやがて死んでいきます。そう考えると少し空しい気もします。ましてや、私たちはイエスさまのように、病をいやす力も持っていません。
 ただ、人は自分たちの持てる小さな知恵と力で、病気の人を支え、癒そうとしていきます。叡子さん、ホスピスに移ろうか、という話もあったようですが、主治医のこの先生のところでいい、といったそうです。人生なんてあっという間かもしれませんが、その中でいろんな人に助けられ、いろんな人に支えられ、いろんな人に祈られる、そこに生きる喜びがあります。神学の中に、人間論というのがありますが、ある神学者によると、聖書の示す人間の特徴は、呼びかけに応える、ということだといいます。そこに交わりが生まれるといいます。イエスさまは、追いすがる人の姿を見て憐れに思い、予定を変更して話し始めます。やがて死ぬのでしょうが、治療してくれた先生、支えてくれた家族、祈ってくれた兄弟姉妹。この愛の交わりの中に、人の生きる本質があるといいます。
 私自身、欠点が多く、色々な人に助けられて、教えてもらって、支えられてきました。もっといろいろなことが一人でうまくできたら、とも思いますが、もしそうであるなら、助けられる喜び、教えられる感謝、支えられる嬉しさ、そういうものを失っていた気もします。人は赤ちゃんとして、無力な姿で生まれてきます。全面的に助けられて生き始めます。親や親せき、友人たちも、そんな赤ちゃんを抱っこして、笑ったり、泣いたりする姿を見ることに、幸せを感じたりするものです。交わりの中に、生きる喜びがあると、聖書の神さまは導きます。神は愛であると聖書は教えます。神さまに祈り、助けられ、兄弟姉妹の祈りに感謝して、生き続けていきましょう。


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