2024年7月28日 聖霊降臨後第10主日 |
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ヨハネ福音書1~21節 「 用いられる喜び 」 | |
6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。 6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。 |
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「贈与経済2.0」という本があります。「お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす」というサブタイトルがついています。本を読みましたが、成長し続けなければ生き延びられない資本主義がだいぶ行き止まりまで来ていて、色々な問題を抱えていることは分かりましたが、次にどう進めばよいのかは、残念ながら私にはイメージできませんでした。ただすごく勉強になったのは、どうして資本主義経済が始まったのか、という部分でした。理由はたくさんあると思いましたが、とても印象に残った理由の一つに、人間関係のわずらわしさから脱するため、というものがありました。助け合いながら、お互いさまと地域の人や親せきに感謝する。それは素敵な関係でもありますが、いったん躓くと、恩知らず、と呼ばれ村八分にされたり、縁を切られたりする世界でもあります。そうならないように、どこかでしぶしぶ協力しなければならない、そういう関係があったりします。いわゆる、お金の関係は、割り切った関係です。後腐れのない関係です。ただ、人間ってすぐに切り替われるものでないので、少しずつ変化していきました。今は、かなり地縁血縁はなくなり、本当にお金であらゆるものが手に入る、そんな時代になりました。多くの人が、最小のコストで、最大の利益を上げようとしています。ある場所で、聖書の学びをしていたら、聖書の箇所が、朝から働いた人も、昼から働いた人も、夕方から働いた人も同じ1デナリオンが与えられた、という話で、私なりに、気前よく恵みをくれる神さまの話をしたつもりなんですけど、ある人が、じゃあ翌日から夕方に働きに行けばいい、そう言っていました。 今日の福音書の箇所は、いわゆる五千人の給食、と呼ばれる話です。ヨハネには特徴があって、元になった五つのパンと二匹の魚は子どもの持ち物でした。その場にいた人は五千人以上いましたから、それだけのパンと魚では、焼け石に水にもなりません。でもおそらく、子どもであったから差し出したのかもしれません。 幼稚園では、月曜日にみんなで礼拝をします。礼拝の前に遊んでいると、年長の子がやってきて、嬉しそうに「今日僕リーダーなんだ。」と言ってくる子がいます。礼拝の中で、年長の二人のリーダーは前へ出てお祈りをします。子どもの頃って、役割が与えられることをうれしく感じています。ところが、いつのころからか、めんどくさくなる。 今日の福音書の箇所に出てくる、子どもはとても誇らしかったと思います。自分の差し出したパンをイエスさまが用いてくれて、多くの人が喜び、満足しています。自分の差し出せるものはわずかでも、それを神さまが用いて下さり、思いがけずそれが大きな働きになるとき、そこには生きる喜びが与えられます。 人の役に立つ、人に喜んでもらえる、人に感謝される。あまりに効率よく生きることばかりを考えて、私たちはこの喜びを忘れてしまっているかもしれません。聖書がさらに教えることは、誰にも知られていない、人知れず、人を助けるあなたの働きも、神さまは見ておられる。だから人を助ける時は、人に知られないようにしなさい。見返りを求めてするな、天に富を積みなさい、そう教えます。実は、これができれば、前近代的な、恩義などの人間関係のわずらわしさも起こりません。天に積む富って、隠れたところで人を助けていると、後々神さまがたくさんの恵みをくれる、っていうだけの話ではなくて、即座に与えられる独特の喜びでもあるんです。人類のやっている営みの中で、素敵だなと思っていることがあって、それがサンタクロースという営みなんです。この営みには、天に積む富がなんなのか、感じとるヒントがある気がします。 効率ばかりを考えすぎると、楽だけどつまらない人生になります。生きていくうえで、人に感謝されたり、喜ばれたりする喜びがあります。人に喜ばれなくても、隠れた働きを見ていて下さる、神さまに喜ばれる喜び、神さまに用いられる喜びがあります。神さまに用いられ、その喜びが与えられることを、求めながら、生きていきたいと思います。 |