202411日 聖霊降臨後第12主日

                  ヨハネ福音書6章35 41~51節 「 命の分かち合い 」 

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

  今日の箇所で、イエスさまは言います。

44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。

  このナザレのイエスが、救い主だと信じられるというのは、当たり前のことではありません。普通の人間が想像する救い主とは、ずいぶんかけ離れて見えます。ダビデのような強さ、政治的な地位の高さがあるわけではありません。ソロモンのように栄華を極めたわけでもありません。おまけに、群衆の圧倒的な支持によって、最後は十字架につけられて殺された人です。イエスさまは、どのような意味で、特別なのでしょうか。
 以前、家庭でホームビデオでとられた映像で、面白い映像が投稿されて紹介する番組がよくありました。その映像で、私が今でも覚えている映像があって、4歳くらいの男の子と、3歳くらいの女の子で、兄弟なんですけど、二人でジュースを飲んでたんです。妹の方が先にジュース飲み終わったんですけど、まだ飲みたいんです。お兄ちゃんのジュースはまだたくさん残っているんです。それでお兄ちゃんがよそ見をしたすきに、妹がお兄ちゃんのジュースを少し飲んで、戻すんです。それで、もう一度お兄ちゃんがよそ見をしたすきに、もう一度飲むんです。でも、ばれないんです。そしたら、3回目取ろうとするんですけど、その時見つかるんです。一瞬たたかれると思いました。そしたら、お兄ちゃんは、自分のジュースを取ろうとしている妹を見て、何するんだろうと思ってみていたら、妹のコップにジュースを分けてあげたんです。何気ないことなんですけど、その映像を見ていた司会者たちがみんな泣いてるんです。私も泣いちゃいました。自分のもの分けてくれる、譲ってくれるって、すごく尊いことです。イエスさまは言います。友のために命を捨てる、これ以上大きな愛はないと。私たち、なかなかできないことですが、そんな出来事に感動するくらいの心は与えられているようです。
 善人でも、偉い人でもなく、罪人の救いのために、自分の命を差し出せることを、本当に尊いことだと感じ、この方こそ本当の救い主、そう思えた人は幸いです。その人には永遠の命が与えられると、イエスさまは教えます。
 イエスさまが私たちに分け与えてくれるのは、イエスさまの体と血です。実際にはパンと葡萄酒です。パンと葡萄酒を通して、イエスさまは私たちに、命と赦しを与えてくれます。
 わたしたちは、死に対して無力です。どんなに遠ざけようとしても、必ず飲み込まれるものです。しかし、この死は、イエスさまによって、命に飲み込まれたといいます。
 無理やり押し付けるものではありませんが、望むものにはすべて、イエスさまの命と愛による赦しが与えられます。神さまにしか与えられない救いがあります。死からの救いです。この神さまは、罪人を救うために自らの命を差し出す、救い主を送ってくれました。喜んで命と愛を受け取っていきたいと思います。


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