2024年8月25日 聖霊降臨後第14主日 |
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ヨハネ福音書6章56~69節 「 不信仰をゆるす神 」 | |
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57
生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59
これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
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神学生時代、新潟県の三条市というところの教会で実習したんですけど。その教会には幼稚園もりました。園児の保護者と、一緒に聖書を学ぶ機会を作ってくれました。最初、どこを読もうと思っていたんですけど、放蕩息子のたとえ話とかなら、教会の人に愛されているし、分かりやすいし、と思い一緒に読んだんです。そしたら、すこぶる評判が悪くて、この息子殊勝なこと言っているけど、お父さんを利用しようとしているだけだよ、しばらくしたらまた出ていくよ、という感想が出てきたことをよく覚えています。 先週イーヴァントいう人の「ルターの信仰論」という本を読みました。この本の中で、ルター曰く、この世界に神の子救い主が来たというのは、だいぶ病気がひどいのに、全然病院に来ない人のところに、見かねて医者の方が駆け付けたようなもんだ、というんです。ところがその患者は、確かに調子は悪いけど、自分の体のことは、自分がよく知っているんで、余計なお世話しないで、出ていってください、って拒絶したっていうのが、イエスさまの十字架だといいます。医者の診断より、自分の診断をとった、ということです。書かれていませんが、想像で、この患者は、不養生していることを医者に叱られる、と思ったのかもしれません。本当は救ってくれるんですけど。この本を読みながら、今のこの世界、私たちの自己診断ではなく、イエスさまが診断したら、どのように見えているのだろうと、想像もしました。みんな自分のことばかり考えて、それは自由にも見えるけど、自分のためだけに生きるって、どこかで空しくて、自分だけでは必ず限界が来るのに、お互いが不信感を募らせている、そんな世界に見えているかもしれない、これは私の想像ですが、そう思いました。 このひと月ヨハネ6章を読んできました。この6章は聖餐に深くかかわる箇所だといわれています。聖餐式のパンと葡萄酒は、イエスさまの体と血です。この体と血を通して、永遠の命と赦しが与えられると私たちは信じています。しかし、よく考えてみると、不思議な取り合わせです。命と赦しです。命と愛といってもいいかもしれませんが、イエスさまの語る愛の特徴は、罪の赦しが含まれ、その真ん中にいることです。 今日の日課、ヨハネ6章の最後のところでは、実にひどい話だ、といいながら弟子たちの多くが離れ去った、と書かれています。最後に残った十二人の弟子たちに、「あなた方も離れていきたいか」と問うています。ペトロは、 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 そう応答しています。しかし、私たちはすでに知っています。十字架の時に、この弟子たちも裏切り、逃げていきます。結局、みんな信じきれなかった、聖書はそのことを教えます。不信仰は、信仰の基本です。誰もが最初は信じられなかった。最初の弟子たちも、信じきれなかった。 |