202425日 聖霊降臨後第14主日

                  ヨハネ福音書6章56~69節 「 不信仰をゆるす神 」 

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
  60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63 命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

  神学生時代、新潟県の三条市というところの教会で実習したんですけど。その教会には幼稚園もりました。園児の保護者と、一緒に聖書を学ぶ機会を作ってくれました。最初、どこを読もうと思っていたんですけど、放蕩息子のたとえ話とかなら、教会の人に愛されているし、分かりやすいし、と思い一緒に読んだんです。そしたら、すこぶる評判が悪くて、この息子殊勝なこと言っているけど、お父さんを利用しようとしているだけだよ、しばらくしたらまた出ていくよ、という感想が出てきたことをよく覚えています。
 先週イーヴァントいう人の「ルターの信仰論」という本を読みました。この本の中で、ルター曰く、この世界に神の子救い主が来たというのは、だいぶ病気がひどいのに、全然病院に来ない人のところに、見かねて医者の方が駆け付けたようなもんだ、というんです。ところがその患者は、確かに調子は悪いけど、自分の体のことは、自分がよく知っているんで、余計なお世話しないで、出ていってください、って拒絶したっていうのが、イエスさまの十字架だといいます。医者の診断より、自分の診断をとった、ということです。書かれていませんが、想像で、この患者は、不養生していることを医者に叱られる、と思ったのかもしれません。本当は救ってくれるんですけど。この本を読みながら、今のこの世界、私たちの自己診断ではなく、イエスさまが診断したら、どのように見えているのだろうと、想像もしました。みんな自分のことばかり考えて、それは自由にも見えるけど、自分のためだけに生きるって、どこかで空しくて、自分だけでは必ず限界が来るのに、お互いが不信感を募らせている、そんな世界に見えているかもしれない、これは私の想像ですが、そう思いました。
 このひと月ヨハネ6章を読んできました。この6章は聖餐に深くかかわる箇所だといわれています。聖餐式のパンと葡萄酒は、イエスさまの体と血です。この体と血を通して、永遠の命と赦しが与えられると私たちは信じています。しかし、よく考えてみると、不思議な取り合わせです。命と赦しです。命と愛といってもいいかもしれませんが、イエスさまの語る愛の特徴は、罪の赦しが含まれ、その真ん中にいることです。
 今日の日課、ヨハネ6章の最後のところでは、実にひどい話だ、といいながら弟子たちの多くが離れ去った、と書かれています。最後に残った十二人の弟子たちに、「あなた方も離れていきたいか」と問うています。ペトロは、

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

 そう応答しています。しかし、私たちはすでに知っています。十字架の時に、この弟子たちも裏切り、逃げていきます。結局、みんな信じきれなかった、聖書はそのことを教えます。不信仰は、信仰の基本です。誰もが最初は信じられなかった。最初の弟子たちも、信じきれなかった。
 ただ、そこで終わらず、裏切りに後悔をしている弟子たちに、復活のイエスさまが現れました。そこで、赦しと変わらぬ恵みが与えられました。聖霊降臨が起こり、十字架にかけろと叫んで、後悔をしたユダヤ人に信仰が与えられました。その中には、今日の箇所で、ひどい話だと言ってここを去った人もいたかもしれません。
 誰も人の信仰を裁くことができなくなりました。最初は誰もが信じられず、信じ続けられるものもいないと、聖書は教えています。自分の不信仰を裁く必要もありません。
 神さまを裏切り、信頼している人を裏切り、自分勝手に生きてみたい、そう思うのが人間です。でも、その生き方に空しさを感じたり、息詰まったりしたら、放蕩息子のように、性懲りもなく帰ってこればいい。病気が治る奇跡など信じられない、そう思っていた自分が病気になったり、大切な人が病気になったら、性懲りもなく、神さまに祈っていい。イエスさまの与える恵みは、命と赦しです。三条の幼稚園で、放蕩息子の話が、最初評判が悪かったのですが、もしかしたら、ただ利用しようとして帰ってきたかもしれない放蕩息子も、まだ遠い場所にいるうちに自分を見つけて、走り寄ってきてくれ、死んだ息子が生き返った、宴を開こうと、喜ぶ父親の姿を見て、心変えられたかもしれない、そう話したら、深く感じいってくれました。裏切るようなことをしたのに、なお赦し、なお助けてくれる、そんな人を、私たちは信頼し、感謝し、尽くそうと思ったりします。自分で自分を裁かずに、イエスさまのところに戻ってきましょう。


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