2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日 |
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マルコ福音書7章1~8 14~15 21~23節 「 罪人として 」 | |
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。 7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 |
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今年の3月くらいに、大谷翔平の通訳が、大谷翔平のお金を横領して、違法賭博をしたという事件がありました。なんでそんなことをしたのだろうと、だれもが思いました。ただ、その事件の直後のラジオで、パーソナリティーの友人で、YMOの事務所で働いていた人がいたそうなんですけど、その事務所では、自分のお金ではないんですけど、大金が右から左、左から右に行き交っていたそうです。このまま事務所にいたら、自分の感覚おかしくなる、そう思ってその事務所を辞めたという話をしていました。わたしたちも、仮に大きなお金が飛び交い、たまたまうまくごまかせるかもしれない、そういう立場にいたら、どうしているか分からない、という危うさを持っています。お金のことではなくても、うまくごまかせる人、つじつまを合わせるのがうまい人というのはいるものです。実は、うまくごまかす能力、というのは危うい能力です。うまくごまかすうちに、問題が大きくなって、判明したころには手が付けられなくなっていることがあるからです。 今日の福音書の箇所で、ファリサイ派や律法学者が、イエスさまの弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見て、イエスさまに向かって、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを守らず、手を洗わずに食べるのか」と文句を言います。手を洗うというのは、衛生の問題ではありません。聖書には書かれていませんが、口伝律法の中に、異邦人に触れてはいけない、という教えがあったといわれています。異邦人に触れた手で、食べ物を食べると自分が汚れる、そういう考えがあったようです。ただ、街中に異邦人が少ないうちは、それができましたが、内陸の国で、商業が盛んになると、異邦人がたくさん出入りするようになります。知らずに、異邦人に触れているかもしれません。そういう時は、食事の前に手を洗えば、汚れが取れる、そう伝えられていました。市場などの人ごみに行ったときは、全身を清めてからでなければ、食事ができない、と伝えられていたようです。 それに対してイエスさまは言います。そんなのは偽善じゃないかと。そんなのはごまかしじゃないかと。神の教えより、人の言い伝えを守っていると。更にイエスさまは言います。これを食べたから汚れる、こんな手で食べたから汚れる、口の中に入っていくもので、人を汚すものはない、そう言います。むしろ、汚れているのは、人の中から出てくるものだと。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 では、人の中にある汚れた思い、それはどうすればなくなるのか。ルターという人は、ルターばかりではなく、ルターの時代の人は、修道をすることで、それができると思っていました。ルターはもともと、修道の人、熱心な修道士、行いの人でした。週に二度断食し、週に二度徹夜の祈りをしたといいます。あのまま行けば死んでいたと、ルターは後に語っています。しかし、ルターは修道を重ねても、自分の中の罪はなくならず、平安は全く与えられない。ルターは聖書を読み重ね、自分は結局神を信じていたのではなく、自分だけを信じていたことに気づきます。しかし、修道を重ねて分かってきたことは、自分の無力さ、人間の無力さです。人は自分で自分を清めることはできません。人間とは救い主が必要な罪人です。終わりの日に、罪の赦しをいただき、新たに生まれなければならないものです。キリスト者は、神さまの恵みと約束において義人ですが、同時に罪人であり続けるものです。義人にして同時に罪人です。偽善者であるよりは、罪人であることを認めた方がいい。 自分の中には、みだらな思い、盗み、貪欲、悪意、ねたみ、傲慢 そういう思いが確かにあります。自分だって、そんな思いを持ちたくはありません。罪を犯して、何度も後味の悪い思いをし、色々なものを失って、後悔した経験があります。でも、罪の思いは無くなってはしまいません。自分は大丈夫、と自分をごまかすより、自分も今でも危うい、そう警戒した方が、少しだけ危うさが下がります。わたしたちだって、悪い意味でチャンスがかなさなれば、悪意が表に出ることがあるものです。誘惑から導き出して、悪からお救いください、そう祈るようにイエスさまから教えられたものです。 |