202422日 聖霊降臨後第18主日

                  マルコ福音書9章30~37節 「 本当に偉い人 」 

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からな  かったが、怖くて尋ねられなかった。

9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

  若松英輔さんの「自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと」という本があるんですけど、その本の中の「言葉の重み」というタイトルのついたエッセイでで、こんな話が出てきました。

 頭で考えた言葉は、相手の頭に届く。心から出た言葉は、相手の心に届く。肚(はら)から出た言葉は、相手の肚に届く

 という言葉なんです。肚というのは、月へん、にくづきに土という字なんですけど「肚を決める」とか、「肚をくくる」とか、「肚を割る」という時に使うんですけど、肉体的なお腹、という意味だけではなく、その人の中心みたいな意味が入る言葉です。魂から出た言葉は、相手の魂に届く、そう言い換えてもいいかもしれません。牧師として、説教者として、考えさせられる言葉でした。頭の中で作っただけの作文では、人の心に届かない。たとえ同じ言葉を語っても、心が伴わなければ、魂が伴わなければ、人への届き方が違うようです。

今日の福音書の箇所で、イエスさまが家についた時、弟子たちに、道の途中で何を議論していたのか、と問うと弟子たちは誰も答えなかったといいます。実際議論していたのは、弟子たちの中でだれが一番偉いのかを議論し合っていたといいます。黙っていたのは、なんとなくはしたない議論だ、という自覚があったのでしょう。
 人が偉くなりたいのは、自分が重要な存在、必要な存在だというしるしが欲しいからでしょう。地位やお金があれば、確かにちやほやしてくれる人もいるでしょう。でもそれは、地位やお金に向かってちやほやしているだけで、それを失えば、本当の意味で大切に思ってくれる人はいなくなるでしょう。今、若い人は偉くなりたがる人はいない気がします。苦労や責任が重い、高い地位など望まない。若い人に限らず、今はほとんどの人がそうかもしれません。でも、どこかで承認欲求みたいなものはあったりします。でも、承認にも重みの違いがあったりします。わたしたちが心の底で求めていることは、誰かから、「あなたがいてくれて本当に良かった。あなたが生まれてきてくれ、自分に出会ってくれて、本当に良かった。あなたが今生きていてくれて本当に良かった。」心の底からそう思ってくれる存在がいることかもしれません。ただ実際に、心の底から承認されること、肚の底から承認されることは、なかなかありません。だから、みんな満たされているようで、満たされておらず、どこかで不安が付きまといます。弟子たちは、だれが一番偉いのかを議論していたといいますが、「えらい」という言葉は不思議な言葉で、軽く使う時と、肚の底から言う時とで、意味が大きく変わります。「あの人結構偉い人らしいよ」という時は、地位があったり、結構重要人物、みたいな意味で使うでしょう。でも、肚の底から「あの人は本当に偉いね」という時は、地位や権力の話ではなくなります。人間として尊敬できる、という意味が出てきます。そういう肚の底から出るえらさ、肚の底から出る承認、肚の底から存在が承認されるのは、決して簡単ではありません。一朝一夕ではできません。一度や二度、良いことをしてそう思われることはないでしょう。その人の歩んできた人生そのものからにじみ出るものです。
 本当の承認を得るために、一見遠回りに見えますが、実は近道があります。イエスさまは、弟子たちに言います。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

  自分が前に出るのではなく、人に譲り、人を生かすものになりなさい。目立つ役回りではなく、人の嫌がる役回りを担いなさい。そして、すべての人に仕えるものになりなさい。イエスさまはそう言います。地位の高いものではなく、小さなものに仕える人ほど、本当の意味でえらく、本当の意味で尊敬されます。
 イエスさまは本来荷う必要のない、私たち罪人のために代わって荷を負い、いばらの道、十字架の道を歩まれました。汚れ役を担い、罪人に仕えるものになりました。だからこそ、肚の底から尊敬されています。
 偉くなる必要はありませんが、本当の意味で、今生き続けている手ごたえ、生きている意味を感じたいなら、小さなものに仕え、人に仕えるものになりましょう。


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