2024年11月3日 全聖徒主日 |
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ヨハネ福音書11章32~44節 「 神の栄光が見られる 」 | |
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 |
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先週説教の準備をしながら、命について、死について、ずいぶん学び、考え、祈りました。ある論文の中で、岸本秀夫という宗教学者の話が出てきました。51歳の時に癌になったといいます。1970年代の話で、まだ癌が容易に治らなかった時代の話です。宗教学者として、死についての自分なりの考え方はあったそうですが、自分が死に直面して考え方がガラッと変わったようです。それまでは死後の世界は信じられず、全ては無になると考えていたそうです。でも、死に直面すると無になってしまうなんて、考えただけでも身の毛もよだつ、という思いになり、最終的には宇宙の霊に一つにされていく、そんな風に思え、少し落ち着いたそうです。同じ論文の中で、本名ではありませんが、花という36歳の女性で、余命宣告をされたブログの投稿をした人の話が出てきます。論文の著者とは、メールを通じて対話もあったそうです。ブログを読むと、自分の死を受容しているように見えていたが、最後まであきらめない文書もかなり終わりのほうまで出てきて、本当は揺れ動いているのが分かったといいます。でも最後の方のブログには、死んでしまった祖母や祖父に会えるとか、魂は残るとか、そんな思いで自分を何とか落ち着かせている様子が見られたようです。 死んだ後のことなの、本当のところは、死んでみないと分からない。分からないことを考えても時間の無駄である、そんな風に考える人もたくさんいるでしょう。しかし、死を身近に感じ始めると、人は大いに不安になり、考えまいとしても、考えてしまうもののようです。死後の世界がはっきりとわかってしまうということはありませんが、信じられるものに出会えた人は幸いです。聖書が語る神の国、天の国とはどんな場所なのか、聖書には具体的には書かれていません。天国のイメージ、あくまでイメージではありますが、聖書の中で割とはっきりと書かれている部分は、今日の第二日課の黙示録の箇所です。 21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
明日終わりの日が来ても、私は今日リンゴの木を植えよう。 |