20241117日 聖霊降臨後第26主日

                  マルコ福音書13章1~8節 「 まだ、終わりではない 」 

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

  今日の福音書の箇所は、小黙示録と呼ばれる箇所です。イエスさまと弟子たちは、過越の祭のために、イスラエルの首都エルサレムに入っています。そこで、ヘロデ大王によって46年の歳月をかけてようやく建て直されたエルサレムの神殿に来ます。神殿は神さまの住む場所、礼拝の場所です。当時の技術の粋を集めて建てられた建物でしょう。弟子が感嘆していると、イエスさまは、この神殿もやがて崩れる日が来るといいます。次の場面で、弟子たちは、それはいつ起こるのか、それは、世の終わりの時だろうか、そう尋ねています。
 実際にこのエルサレムの神殿は、イエスさまが十字架にかかってから、約40年後、紀元70年にローマ帝国によって破壊されます。そして、イスラエルという国土はなくなり、ユダヤ人は20世紀まで流浪の民になります。ユダヤ人にとって、衝撃的な出来事だったと思いますが、世の終わりは来ませんでした。
 ヤクルトの野村監督が、若手にスランプはない、と言っていたことを思い出します。ベテランでいつも通り打っているのに、しばらくヒットが出ないのは、スランプの可能性があるが、若手は、弱点や欠点があらわになって、そこを攻められるようになっただけだといいます。野球選手じゃなくても、若いうちは、たくさん失敗します。自分の足りなさを思い知らされることがあります。自分の力でできていたと思っていたことが、環境が変わると、全然通用しないこともあります。それまで周りに恵まれていたことに後で気づき、自信が崩されることもあります。年齢を重ねたものは、今までできていたことが、今まで通りできない自分を受け入れることへの葛藤が起こります。そして今までのやり方を変えることにまた、葛藤を覚えます、言うのは簡単ですが、大きなショックを伴うこともあります。でも、変な自負心が取れて、新しい景色が見えることもあります。
 これは私の感想ですが、今、時代は急激に悪い方向に向かっている気がしています。
 今日の聖書の箇所を絡めていえば、惑わす偽の救世主が現れ、戦争が起こり、地震が起こり、飢饉が起こる。今まさにそんな時代にも思えます。それに対して、何をすればよいか、イエスさまは言います。惑わされるな、慌てるな、取り越し苦労をするな、イエスさまはそう教えます。世の終わりはすぐには来ない、そう言います。世の終わりは、そう簡単に来ません。今まで、一度も来たことがありません。
 でも、個人的には、時々思います。もうだめだ。自分なんてだめだ。もう自分は終わりだ。若い頃は挫折をするたびに。年を重ねれば、衰えていく自分を見るたびにそう思います。しかし、イエスさまは言います。あなたは終わりではない。まだまだ、終わりではない。終わりはそう簡単には来ない。失敗や挫折は、あなたが良く変わっていくチャンスでもあります。
 ある憲法学者が、憲法や法律は人間の失敗の集積だといいます。政府が昔こんな暴走をしたから、憲法で権限を成約した。歯止めの利かない人たちが現れ、大変なことになったから、こうやって相互監視するようにした。失敗をして、痛烈な後悔をした時、人は初めて新しいやり方を模索します。人間は残念ながら、失敗をして痛い目に合わなければ、気づかない生き物のようです。憲法は、古い世代が新しい世代に引き継ぐ、失敗の苦みです。
 憲法だけではなく、聖書の方がより、その性格を持っています。アダムとエバ、カインとアベル、からイエスさまの十字架に至るまで、これは人類の失敗集です。カインから嫉妬して人を殺してしまう苦み、ソロモンからおごれるものの苦み、祭司やファリサイ派の人から、人と争い、主導権争いのために、神の子、救い主を殺してしまう苦み。弱さから、逃げ出してしまう弟子たちの苦み。その苦みを味わうほど、私たちは後悔を追体験し、失敗から少し遠ざかることができるのだと思います。しかし、同時に、その失敗のたびに赦しを与え、悔い改めの機会を与え、なお愛し続けてくださる神さまの愛なくしては、その苦みを味わうことはできないでしょう。
 わたしたちは、これからも失敗したり、挫折したりします。この世界も間違い続け、失敗し続け、後悔を重ねるでしょう。しかし、イエスさまは言います。あなたは終わりではありません。勝手に絶望するな。世の終わりはすぐには来ない、惑わされるな、慌てるな、取り越し苦労するな。それはあなたが変わるチャンスでもあります。世界が変わるチャンスでもあります。聖書に従えば、失敗や挫折は産みの苦しみの始まりにすぎません。少し落ち込んで苦い思いをした後に、もう一度立ち上がるチャンスが神さまに備えられています。失敗し落ち込みますが、慌てず、取り越し苦労はせず、主の道を信じて、何度も立ち上がらせていただきましょう。産みの苦しみを味わいながらも、新しいものを産んでいきましょう。


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