20241124日 永遠の王キリスト

                  ヨハネ福音書18章33~37節 「 栄光をすべて捨てる 」 

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

  先週聖書を読んでいて、改めてキリスト教信仰ってとても変なものだと感じました。プラトンとかブッダとかアリストテレスとか孔子であったり、後の世まで語り継がれる偉大な教師は幾人かいます。イエスの教えで、人を裁くな、敵を愛しなさい、という教えはキリスト者ではなくても、どうやったら戦争って終わるんだろう、どうやったら人間関係に対する悩みが減るんだろう、そんな風に考える人にとっても一つのヒントになったり、大事な教えになったりする気がします。その意味では、他の教え、他の偉大な人たちと相並ぶ部分があると思います。しかし、孔子もプラトンも絶対に言わないことをイエスさまは語ります。今日の福音書の箇所でいえば、

 わたしの国は、この世に属していない
  わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た

イエスさまは、もともとこの世に属するものではなく、真理を語るためにこの世に来た、そんなこと、プラトンも孔子も絶対に言わない。言うとすれば、カルト宗教の教祖だと思います。ここでイエスさまは、真理を証しするために来た、と書かれていますが、ここで語られる真理とは何なのでしょう。この福音書は、20章のところでいったん終わっていますが、その最後のところに、新共同訳でいえば、本書の目的という小見出しがついたところがあります。2031節に

これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである。

と書かれています。イエスさまの語る真理とは、神はひとりごを世に与え、信じるものにこの世の命ではない、神の命を与えて死から救おうとしている、それが真理なのだと思います。自分はこの世に属しておらず、神の子メシアであり、あなたに神の命を与えるために来た、そう語るものがあなたの目の前に現れたら、基本的には信じない方がいい。おそらくすべてカルト宗教でしょう。しかし、イエスさまは、唯一例外的に、本物の神の子メシアなのだろうか。これは、信じられるかどうかの話なので、人に強要することはできないものです。
しかし、私にとって、イエスさまはあらゆるカルト宗教の教祖とは、違う姿を持っているように感じられます。この福音書の中で、「私は栄光を受ける」という言葉が何度か出てきます。イエスさまが「栄光を受ける」と語るときに示していることは、イエスさまご自身が十字架にかかることです。もはや、十字架は神秘化されていて素晴らしいもののように感じられていますが、本来はさらし首に似たような、さらし者の死刑です。それもユダヤ人の死刑の方法ではなく、異邦人による異邦人の方法の死刑です。ユダヤ人にとって、最も屈辱的な死に方です。それをイエスさまは「栄光を受ける」と表現します。聖書を読むたびに、ずっと違和感を感じていました。でも、もしかしたら、イエスさまは、全ての栄光を捨てられ、あらゆる屈辱を受けることができるからこそ、偉大なのかもしれないと思うようになりました。自己顕示欲の強いカルト宗教の教祖では、真似できないことだと思います。自分の栄光をすべて捨て、あらゆる屈辱を引き受けることこそが、本当の救い主のしるしなのかもしれません。イエスさまは言います。私は仕えられるためではなく、仕えるために来たと。その言葉通り、十字架の死に至るまで仕え続けた永遠の王です。
この方は、もしかしたら、私達を死から救うことのできる神の子、メシアかもしれないと、私は信じています。信仰をすでに持っている方は、その信仰が深められ、まだ信仰を持っていない方も、イエスさまと出会い続けて、いつの日か、この方は本当にもしかしたらと思える日が与えられることを祈っています。


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