2024年12月1日 待降節第1主日 |
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ルカ福音書21章25~36節 「 聖なる方と出会う者 」 | |
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 |
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教会の暦が改まり、待降節に入りました。聖なる夜、クリスマスが本当に近づいてきました。聖なる、英語でいえば、ホーリーという言葉に、いつも不思議な感情が与えられます。魅力的でありながら、どこかで近づきがたく、たんに素晴らしい、という思いではなく、少し清められる思いになります。クリスマスに限らず、教会は聖なる場所です。わたしたちが聖典としているのは聖書、聖なる書物、私が立っている場所も、聖壇、聖なる場所です。 今日の福音書から、ルカによる福音書を中心に読んでいきます。今日の日課は二週前に、マルコで読んだ小黙示録と呼ばれるところの続きになります、エルサレムの神殿にいて、この神殿が崩れる、そんなイエスさまの話を聞いて、話は世の終わりの話に移っていきます。 世の終わりはいつ来るか、イエスさまは不思議な語り方をします。戦争が起こったり、災害が起こったり、疫病が流行ったり、そういうことは起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない、といいます。しかし、今日の箇所では同時に、天地の揺れ動くときごく時が来て、人々が不安になるときは、頭を上げなさい。解放の時は近い、人の子は戸口まで来ているといいます。その日は不意に罠のように襲う、とも書いてあります。 すぐは来ないが、常に心構えをしておきなさい、そう語られている気がします。それは大きな地震が起こるとか、そんな噂を聞いても惑わされるな、でもいつでも地震に備えなさい、そう言われているのに近いと思います。 ただ、一貫して書かれていることは、どんな災いが起こっても、戸惑うな、慌てるな、取り越し苦労をするな、本当に世の終わりが来ても、それはイエスさまが来られる時であり、解放の時、神の国入れられる時だ、そう語っています。 2週前の説教では結局言わなかったんですけど、原稿に書いた言葉があります。それは、今まで一度も世の終わりは来たことがない、という言葉です。 実際今まで一度も世の終わりは来ていないので、この聖書の箇所は、ずっと意味を持たなかったのだろうか。そんなことはないでしょう。それは、すぐには世の終わりは来なくても、私達に死があります。今のところ、死を逃れた人はいません。これは逆に、全ての人に与えられてきたものです。それは、まだ、すぐには来ないかもしれませんが、今日起こるかもしれず、いつ起こるか分からないものです。 その死に備えてすべきこと、それはやはり、戸惑わないこと、慌てないこと、取り越し苦労をしないこと。そういわれても、不安は襲うでしょう。でも、それは人の子が近づいている時であり、解放の時であると信じなさい、イエスさまはそう教えます。 備えるとすれば、必ずイエスさまに救ってもらえ、神の国に入れられるのですから、その聖なる存在と会う準備をしなさい、ということです。この世風に言えば、あなたがもし一週間後、ずっとあこがれていた人と会えるとしたら。少し生活を清めると思います。ずっとあこがれていた場所に、ようやくいけるとしたら、少し緊張して眠れないかもしれません。清い生活をしていないとイエスさまに救ってもらえない、神の国に入れないということではありません。罪をゆるされる神は、あなたへの約束の言葉通りに、あなたを神の国に連れて行ってくれます。天地は滅びても、私の言葉は決して滅びない、イエスさまは今日の箇所でも語っています。放蕩息子は、自由に生きてみたが、うまくいかず、初めて自分がいた元居た家の生活がいかに恵まれていたかに気づきました。そして、父親の愛情を感じていたから、家に帰ったのでしょう。しかし、見誤っているものがありました。放蕩息子は、雇人の一人にしてもらおうと思っていましたが、死んだ息子が生き返ったようなものだと、この上なく喜んで、歓迎してくれました。直に出会うイエスさまの愛は、私たちが思っている以上のものでしょう。愛に満ちた神の国のすばらしさは、私達が想像している以上のものでしょう。 会うため、神の国に入るための条件ではありません。必ずあなたは聖なる方に会えます。愛の国に入れられます。聖なる方とやがて会うものとして、愛の国に招かれているものとして、ふさわしい生き方をしなさい。目を覚ましていなさい、とはそういう意味でしょう。いつ来るか分からない、その素晴らしい日のために、常に備えて生きましょう。 |