202412日 待降節第2主日

                  ルカ福音書3章1~6節 「 心のうめき 」 

3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
3:5
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
3:6
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

  すごく疲れていたり、体調が悪かったりすると、人にやさしくするのが難しくなります。心が傷ついたり、絶望的な気持ちに何度もさせられると、前向きにものが考えられなくなります。自分の心なんて、いつでも好きなようにコントロールすることはできません。
 時々、プロ野球のかつての名選手の話を聞いていたりすると思うことがあります。名選手ほど、野球に悩んでいたんだと。たくさん悩み、たくさん考えたからこそ、名選手になったんだと。天才的に見える、新庄みたいな人も、人の見えないところで努力していた話が、漏れ聞こえるようになりました。
 
そんな意味でいえば、誰もが自分のやれる精一杯のことをして生きているのかもしれません。いつも不機嫌で、あたりに悪いものをまき散らしている人であっても、その人の体調、その人が経験したことを全て知ることができるとしたら、その言動も理解できるのかもしれません。
 ただ、自分のやれる精一杯のことをしたのだから、それで仕方ない、と私たちは本当に思っているのでしょうか。
 ローマの信徒への手紙、8章の18節から、こんなことが書いています。 

8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。3 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

 わたしたちは、どうしようもないので、自分のやれる精一杯をしたのだから、それでいいと自分にいい聞かせているのかもしれません。でも、決してこれがいいと思っているわけでもありません。限界があることにうめいています。常に心はうめいています。
 わたしたちが救い主を迎えるために、大切な準備があります。この心の呻きに正直になることです。救い主に会うために必要な準備は、救ってもらいたい、という心に素直になることです。洗礼者ヨハネが行った洗礼は、単なる清めではありません。教会が行っている洗礼も、単なる清めではありません。生まれなおしの約束です。新たに神の子としての命を受けるための約束であり、その希望が与えられることです。本当に生まれなおすためには、一度死ななければなりませんが、私たちは生きている間に約束が与えられ、それが希望になります。
 今日の箇所には、イザヤ書40章からの引用の言葉が出てきます。第二イザヤと呼ばれる預言者の最初の部分です。バビロン捕囚から、解放される直前の詩です。最後の言葉は、

 人は皆、神の救いを仰ぎ見る

 そこで引用が終わっています。あなたは、人間の限界の中で精一杯生きてきました。しかし、これからは神からの救い主が与えられると聖書は教えます。自分の中にあるうめきに正直になりましょう。そして神さまに、イエスさまに救っていただきましょう。


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