皆さんは分かりませんが、私の心の中には、悪いことをした人には、痛い目にあってほしいという、いわゆる懲罰感情というものがあります。悪い人が痛い目に合う、それは正直とても気持ちのいいことです。
今日の福音書の箇所は、先週に引き続き、洗礼者ヨハネの話です。洗礼者ヨハネの言葉は、厳しい言葉に見えます。
蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。
といいます。この当時、異邦人がユダヤ教に改宗するとき、割礼を施す前に、洗礼を受ける、ということがあったといわれています。ヨハネは、ユダヤ人にも改めて洗礼を受けさせた。悔い改めは、選ばれた民ユダヤ人だから、免責されるものではない、ということでしょう。更にヨハネは言います。
9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
神の裁きは迫っている。そう語ります。具体的にどうしたらよいか、というやり取りが続きます。内容は特別なことではない。徴税人に対し、徴税人なんかやめろ、兵士に対し、兵士なんかやめろ、と言ったわけではありません。徴税人には、規定以上に取るな、兵士に対しては、金をゆすり取ったりせず、自分の給与で満足せよ、そう語っています。
最近しばしば、ハラスメントという言葉を聞きます。よく聞くのは、カスハラ、カスタマーハラスメント、客が店員などにする迷惑行為です。人は少しでも、自分が優位に立つと、強気になってしまう。お金を取り立てる側、武装した兵士、それに店員に対する客という立場でも、ある意味強い立場です。人は優位な立場に立つと醜い自分が表に出やすくなります。実際に自分はしてなくても、ハラスメントの話を聞くと、自分も注意しなくては、そんな思いにさせられます。
わたしたちは明らかに罪人です。しかし、私達にはもっと深い罪があります。わたしたちに潜む罪、少なくとも私に潜む罪は、人を悔い改めに導こうとはせず、むしろ、罪人を裁き、罪人をつぶしたい、そんな心があるところです。イエスさまと真逆の思い、神さまとの真逆の思いです。罪人など救われなければよい、自分を棚に上げて、私たちの心にはそんな思いが潜んでいます。
ヨハネはイエスさまの道を備えるものです。ヨハネの言葉は時に厳しいが、目的は、イエスさまと同じ、罪人が悔い改めることです。搾取していた人が、搾取を止めることです。搾取されていた人が、正当に立場に戻ることです。多めにもらっていた人が、少なめにしかもらっていなかった人の補填をすることです。そして、今まで罪を犯してきたものを罰することではなく、悔い改めに導いて救おうとすることです。
洗礼者ヨハネは、自分の限界も感じていたかもしれません。厳しい言葉で、人を本当の意味では、なかなか悔い改めさせることはできない。そのことも感じていたかもしれません。自分は、メシアではない、ヨハネはそう語っています。イエスさまは厳しい言葉ではなく、罪人と共に食事をし、罪人の家に泊まるメシアです。本当救い主は、愛によって罪人を悔い改めに導き、救っていきます。
悔い改めとは、方向転換のことです。まずは、私達がイエスさまと同じ方向を向くことです。罪人を罰し、つぶそうと思う心ではなく、イエスさまのように、罪人の救いを願う心を、私達に与えてください、そう祈ることです。なかなかできなくとも、そう祈る人が一人でも増える時、この世界は、少しだけよくなります。まずは、わたしたちから、つぶすものではなく、救うものになりたい、そう祈りましょう。
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