202428日 顕現後第4主日

          マルコ福音書1章21~28節 「 権威ある者 」 

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 イエスさまが四人の漁師を弟子にして、初めてイエスさまが聖書について、神さまについて語り始めた場面です。聞いた人は、非常に驚いた、と書かれています。ただ、不思議なことにその教えの内容はマルコ福音書に書かれていません。おそらくマルコにとって大事なのは内容の問題ではなかったのだと思います。律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった、そのことが大事だと感じていたのでしょう。それはまるで神ご自身の言葉のように、「光あれ」と語った時に光が現れるような言葉であったようです。実は並行箇所のルカ4章では、語った内容が書かれています。そこでイエスさまはまずイザヤ書を読んで、

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
 4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 社会学の名著で、マックス・ウェーバーという人が書いた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」という本があるんですけど、ようは、プロテスタント教会が強いところで、資本主義が発展していったという傾向があるんですけど、これはなぜなのだろう、という本なんです。読んでもあまり分からないんですけど、現象としては実際に起こっているんで、今でも後を追って研究している人がいます。そういう人たちの本のおかげで、少し理解できたことがありました。
 プロテスタント教会が強いところでは、資本主義だけではなくて、科学革命、産業革命も起こっているんです。それは別々にたまたま起こったわけではなくて、相関しながら起こっている。その引き金になった、一つの要因は、プロテスタント教会は、権威を捨てて、神さまの前で謙虚になったことです。人間の行いによるのではなく、すべて神の恵みである。ルターのこの教えは人間から権威を剥奪しました。宗教改革前の中世まで、当時の教皇や教会は一つの権威でしたが、プロテスタント教会は、そのようにはふるまいませんでした。教会の内部でも、教皇や司祭というのは一つの権威でしたが、ルターは万人祭司性、人の中に上下はないと語りました。プロテスタント教会では、神さまのみ、イエスさまのみに権威を見、神さまの愛と恵みを信じる中で自分たちの小ささを受け入れました。科学には大原則があるのですが、それは「すべては仮説である」ということです。私たちはこの世の真実、この世界のすべてを理解することはありません。しかし、仮説を積み重ねる中で、この世界というテキストを少しだけでも解き明かそうとするのが科学です。研究をつづけ、研究を積み上げるようになりました。資本主義、産業革命、科学革命と相まってというか、その土台にもなるものかもしれませんが、ある本の中に「勤勉革命」という言葉が出てきました。勤勉革命の前は、時給を倍にしたら、半分の時間しか働かない、という人が主流だったといいます。そこでは資本主義ははじまっていきません。ルターは、修道院を廃止しましたが、実はすべての人を修道士にしたともいわれています。ドイツ語ではベルーフ、英語ではコーリングといわれ、天職と訳されることも多いのですが、教会の中なら、召命、使命という意味に近いと思います。人は牧師ではなくても、それぞれの仕事や、それぞれの立場の中で、神さまから使命が与えられている。ルターは、祭司も信徒の一人だ、とは語りませんでした。すべての信徒が祭司であると語りました。万人が祭司です。宗教改革の影響を受けた場所では、人は修道士のように働くようになったといいます。そこで、産業革命がおこり、資本主義が立ち上がっていきます。神さまのみに、権威を認める。もしかしたら、民主主義もこの流れの中にあるのかもしれません。宗教改革、信仰の変化は、人を変え、世界を変化させていきました。
 エクソシストのように、私たちが悪霊払いをする場面は、おそらくないと思いますが、もし戦うならば、私たちの力によるのではないでしょう。私たちは無力ではありますが、私たちは本当に権威のある唯一の方を知っています。その方の働きを祈ることが私たちの働きでしょう。
 人は権威を自分に求めだすと、ろくなことをしないのだと思います。神さまのみに権威を帰し、私たちは、それぞれの立場で与えられている、小さな使命を果たしていきましょう。


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