2024日 顕現後第5主日

          マルコ福音書1章29~39節 「 和解者 」 

1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 今日の福音書の箇所は、イエスさまがシモン、シモン・ペトロのうちへ行くとペトロのお姑さんが熱を出して寝ています。イエスさまが手を取って起こすと、熱が下がり、その姑はもてなしを始めたといいます。それが噂になったのか、日が沈むと大勢の人が病人を連れてきて、イエスさまに癒してもらい、悪霊を追い出してもらったといいます。この日は安息日だったので、病人を連れてきたり、癒してもらうこと自体が、安息日の規定を破ることになるかもしれないので、ユダヤの日付変更線である、日没まで待ったのだと思います。その日のうちで癒しきれなかったのか、おそらく夜明け前から、大勢の人がペトロのうちに駆け付けたと思うのですが、イエスさまはいない。イエスさまは、人里離れたところで一人祈っておられたといいます。ペトロたちが呼びに来ると、イエスさまは家に戻って、大勢の人を癒すのではなく、他の町や村へ行こうと、旅立ってしまいます。癒してあげればいいのに、と思います。もう一つ不思議に思うことは、悪霊にものをいうことを許さなかったと書かれています。理由は、悪霊がイエスさまの正体、神の子であり、メシアであることを知っていたからだと、書かれています。本当の正体を知らなかったから、言うのを禁ずるなら分かるのですが、知っていたから禁じる、というのもよく分かりません。メシアの秘密、といわれます。来週は変容主日ですが、目撃した三人だけの弟子に、見たことを十字架の出来事まで語るな、と命じています。多くの人に見せつければいいのに、とも思います。神学的にこのメシアの秘密は、奇跡を行い、光り輝くイエスさまだけを見る時、イエスさまを誤解するからだといわれます。受難の姿、愛の姿、赦しの姿を共に見なければいけない、といいます。実際に教会で語られることは、神々しいものが見られるとか、教会に来れば病気が治るとか、そんな風には宣教しません。赦しあうこと、補い合うこと、愛し合うこと、神さまと和解し、人と和解することをメッセージします。だったら逆に、奇跡なんかしなければいいのに、とも思います。誤解や変な期待をかえって招く気がします。
 アフガニスタンで医療奉仕をしていた中村哲さんのお話を今まで何度かしたことがあります。医療の足りてないアフガニスタンで、医療ばかりではなく、井戸を掘ったり、水路を整備したりした人です。現地の人たちに本当に溶け込み、名誉アフガニスタン人に認定されて、ビザも必要なかったそうです。内戦状態が続く、アフガニスタンには、ソ連が干渉したり、その後アメリカが20年くらい干渉しましたが、うまくいかず、手を引いていきました。アメリカ軍も、井戸を掘ったり、インフラの整備をしたりもしたといいます。しかし、アフガニスタンの人からは、アメリカは支持されなかったといいます。中村哲さんとどこが違ったのだろう、と思います。
 最近知ったことなのですが、中村さんが井戸を掘ったり、水路を整備するとき、江戸時代の技術を使ったそうです。理由は、現地のアフガニスタン人の知恵と力で応用できる方法だからそうです。最先端の技術、最先端の機械を使えば、もっと簡単にできるかもしれない。他の国から来た人たちは、そうしたでしょう。しかし、それは奇跡だけに頼ることに近い。その人たちがいなくなれば、できなくなってしまう。機械を置いて行ってもらっても、故障をしたり、障害があると、修理したり応用したりすることが簡単ではなくなります。しかし、スコップがあればできる方法を知れば、中村さんがいなくなってもできますし、アフガニスタン人自身の力で技術を進めることもできます。じゃあ、最初から中村さんがいなくてもできたかというと、そういうわけでもありません。内戦状態で、お互いに不信感を抱きあい、協力して力を合わせよう、という前向きな思いが抱けないでいた。対立していた人たちが、和解して前向きになるために必要な存在は、それを仲介する人だといわれます。それも上から裁定を下す、という存在ではなく、同じ目線で両方の立場を理解してくれる人でしょう。中村さんはアフガニスタン人にとって、仲間でありながら、やはり外国人でもある。仲間でありながら、第三者の視点もある。だから、中村さんのもとで、対立していた人たちが、和解して協力し合うようになる。仲間でありながら、外国人って、誰かに似ています。イエスさまです。イエスさまは、完全な神であり、完全な人である、そういう存在です。どちらかだけではいけません。だからこそ、私たちはイエスさまによって、神さまと和解することができます。そして、人と人との対立も、イエスさまのもとで許しあい、再び愛し合うことができます。
 祈りによって思いを越えたことが起こることが確かにあります。しかし、去年も奇跡的に助かったから、今年も奇跡が起こるだろうと、奇跡頼みをすることはできません。受難の道を歩まれ、十字架の贖いをしてくださった、和解者であるイエスさまのみ姿も大切にし、人と人との間でも、イエスさまの前で許しあうことを覚えましょう。そして時には、私たちの思いを越えた恵みを与えてくれる、恵み深い主に祈り求めながら、歩み続けていきましょう。


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