202411日 主の変容

          マルコ福音書9章2~9節 「 和解者 」 

 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

 今日の主日は、主の変容です。神の子イエス・キリストが立ち現れてくる顕現節と受難節の間に挟まる主日です。分水嶺、山の頂で、上りから下りに変わる主日です。
 六日の後、という言葉から始まっています。何の六日後かというと、ペトロの信仰告白です。しかし、それは同時に、イエスさまが初めて受難と十字架の予告をした時でもあります。その予告を聞いて、ペトロはイエスさまをいさめ始め、イエスさまに「退けサタン」と叱られる、という出来事が記されています。その六日後の出来事です。
 イエスさまは。ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子だけを連れて山に登ります。そこでイエスさまの姿が変わる。光り輝く姿になり、そこにエリヤとモーセが現れたといいます。ペトロはその光景を見て、「ここにいるのは素晴らしいことです、仮小屋を三つ建てましょう」と言い始めます。ペトロ自身、自分の気持ちをどう表現すればよいかわからなかったと書かれています。弟子たちは非常に恐れていたといいます。まっすぐ日本語的に考えると、矛盾したことが書かれています。一見矛盾しているようですが、聖なるもの、聖なる存在というのは、素晴らしい、という思いと、恐れの思いを同時に抱かせるものです。
 そこで雲が現れ彼らを覆ったといいます。モーセがシナイ山にのぼり、十戒を授かった時も、雲に覆われます。モーセ自身は気づいていませんでしたが、モーセの顔も光っていたと書かれています。ここでは、

「これは私の愛する子、これに聞け」

 という神の声が聞こえたといいます。気づくと、イエスさまだけが彼らと一緒にいたといいます。イエスさまは弟子たちに、人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを話さないように告げています。
 ある神学者が、聖書の中に、生まれ変わりという考えが全くないとは言えない、と語っています。輪廻や前世後世とは少し違うものですが、ヘロデが洗礼者ヨハネを殺した後、イエスさまが現れたときヨハネが死者の中から生き返ったのではと恐れています。ペトロの信仰告白の時にも、イエスさまはまず弟子たちに、人々は私のことを何者だといっているかと尋ね、弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、モーセが自分のような預言者が再び与えられる、と言っていたあの預言者だと言っている、と答えています。生まれ変わりとは少し違いますが、一つの命が死んでも、霊によって引き継がれていく使命のようなものがあるようです。ヨハネ福音書の中で、イエスさまは、人の子が死なねば、聖霊は与えられない、と教えてもいます。
 キリスト者は、イエスさまの霊を引き継ぐものです。ここで弟子たちは、復活まで見たこと語るなと、禁じられています。ペトロの信仰告白の時も、イエスさまが何者であるかと語ることを禁じています。ペトロは、正解を口にしているが、メシアというものをきちんと理解していなかったからでしょう。ではなぜ正解できたか、それは他の福音書に書かれていますが、信仰を告白したのは神によってだと語られています。
 私たちの信仰も、神さまによって与えられたものです。しかし、ここでの弟子たちのように、メシアのことをきちんと理解しているかというと、そうとは言えません。しかし、逆も言えます。きちんと理解をしてはいないが、あなたは神さまによって正解を告白したものです。しかし、イエスさまの使命を引き継ぐものであれば、メシアを少しでも理解していかなければいけないものです。
 光り輝くイエスさまだけを見るならば、イエスさまを理解したことにはならない。弟子たちがこの後見ていくものは、イエスさまの受難です。イエスさまの耐え忍ぶ姿です。イエスさまは何に耐え忍んだのか、むち打ちでしょうか、釘の痛みでしょうか。それならば、他の罪人も受けていることです。
 イエスさまが他の罪人と違うのは、それでも人を赦し続け、それでも人を愛し続けた姿です。救おうとした人間、救おうとした罪人に、恩をあだで返されても、それでも赦し続け、それでも愛を変えなかった。
 今は、人を裁く世の中です。罪人を叩き潰す世の中です。良くしようとするのではなく、裁こうとする世の中です。残念ながら、自分の中にも、その心があります。イエスさまの受難の姿を見ながら、自分の罪と戦い、罪人の一人として、それでも赦すこと、愛することを伝えていく使命が与えられたものです。自分の力ではできないことですが、聖霊の働きを祈って、その使命を少しでも果たしましょう。


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