202418日 四旬節第一主日

          マルコ福音書1章9~15節 「 試練 」 

 

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 
12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 今日の箇所は、イエスさまが公生涯を始められる時、どのような道を歩んだかが書かれています。イエスさまは公生涯を始めるに際し、ヨハネから洗礼を受け、神の霊に導かれて荒れ野で四十日を過ごし、サタンから誘惑を受け、それを退けて公生涯を始められます。
 現在ではあまり見かけなくなりましたが、イニシエーション、入信儀礼とか、通過儀礼とか言われるものがあります。部活に入った直後とか、就職した直後とかに、スタート強めの負荷がかけられるとか、ある儀式を通過しないとスタートできないというものです。今では「ハラスメント」といわれてやりにくい時代でしょう。今でも残る日本の通過儀礼といわれるのは、受験であるといわれています。この通過儀礼はどんな役割を果たしていたかというと、自分はこれくらいしかできない、と思っていたが、常ならぬ状況の中で、それまでの自分の限界を大きく突破することができる、というものです。しかし、それ以上に意味がるといわれているのは、自分の限界に直面する、ということです。もっとできるに違いないという幻想から、現実を見せられる。本気さえ出せばもっとできると思っていたが、できない自分に直面させられます。
 今はハラスメントの問題などで、そのような通過儀礼的な取り組みはなくなりつつあるのかもしれませんが、人間に限界がなくなったわけではありません。すぐにではなくても、いずれ自分の限界に直面させられる場面が来ます。しかも、人生の中で、何度も起こります。新人時代もそうですが、年齢を重ねても、直面します。現場の仕事は向いていたが、管理職は向いてないとか。どんなに良いものを生み出しても、時代の波には逆らえないとか。昔はできていたし、まだ若いつもりでいたけど、これが今の限界だ、というのを受け入れるのは、その都度辛いことでもあります。
 聖書は、不思議と同じようなことが繰り返されていきます。ノアの洪水があって、人類の再スタートがかけられる。雨は四十日です。今日の第二日課で、ペトロは、ノアの洪水は人類の洗礼だったと語られています。古い人類が死に、新しい人類が始まる。それも洗礼同様1回きりの約束です。出エジプトの時も、海を潜り抜けて脱出し、荒野の四十年の旅をし、約束の地に戻っていきます。そこでも人間の弱さが出る不平不満の旅です。モーセが十戒を授かるときも、四十日四十夜山にいたと書かれています。その間にユダヤ人は偶像を作ったりしています。節目節目に過去を連想させるようなことが起こります。
 人の人生にもいくつもの節目があります。良いことをきっかけに節目を迎えることもありますが、大概は限界を感じ、変えたくないが変わらなきゃいけない、という事態が起こって節目を迎えるものです。その時に、神さまのみ旨を仰ぎ見、それに従い続けることができるか。ヨブ記ではないですが、良い時は神さまに感謝できますが、うまくいっていない時、祈っても聞いてくださらない神さまに対して、不平を持つものです。そこで人間の浅知恵で、事態をさらに悪くすることがあります。
 人間には、力においても、愛においても、信仰においても、必ず弱さがあり、限界があります。誘惑に敗れるものです。
 イエスさまが、荒野へ行かれたた意味、受難に会われた意味として、ヘブライ人の手紙4章15節に、

  4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
 
 人にとって大切なことは、赦しと憐みの愛の神を信じて、素直に自分の弱さを認め、罪を認め、助けを求めることです。ほしいものが与えられるわけではありませんが、時宜にかなった助けが与えられると聖書は語ります。意地を張らずに弱さを認めながら、助けを祈ってもう一度歩み出しましょう。


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