202425日 四旬節第2主日

          マルコ福音書8章31~38節 「 本当の謙虚さ 」 

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 先週、あるルターの説教を読んだんです。タイトルは「隠された神」です。聖書の言葉は、

「これらのことを知恵あるものや賢いものに隠して、幼子に表してくださいました。」

 という箇所なのですが、前から、なんで隠すんだろう、と思っていたんです。どっちにも表せばいいのにと。ルター曰く、それは、本当の意味で、人が謙虚になるためだと。人はある程度大人になれば「自分は賢いです」とか、「知恵あるものです」とかは人には言わないものです。愚かなものです、罪深いものです、いさおしのないものです、と言葉では言う。でも、心ひそかに、自分を賢いというほど馬鹿じゃないよ、と思っていたりします。要は、本当は、自分のことを少しは賢いと思っていたりします。それに比べて、あいつは謙虚じゃないよな、とか思っていたりします。言葉や振る舞いは謙虚でも、本当に謙虚なのかというと、心の中は結構傲慢だったりします。幼子も、わがままだし、自己中心的だし、そんなに謙虚じゃありません。ただ、幼子がどこかで感じているのは、自分一人では生きていけない、ということ。助けがなきゃ、生きていけない、ということは知っています。
 今日の聖書の箇所は、ペトロの信仰告白の後、初めてイエスさまが自分の受難と、十字架を予告した場面です。ペトロはそれを聞いて、イエスさまをいさめ始めたと書かれています。するとイエスさまはペトロに、引き下がれサタン、といわれます。この、引き下がれ、という言葉は、直訳すると、遠くへ行け、という意味ではなく、私の後ろに回れ、というニュアンスの言葉です。ペトロの気持ちもよく分かります。イエスさまを見る前に、救い主の最後が、苦しみを受けて排斥され、十字架にかけられる、そんな救い主は想像できないでしょう。しかし、イエスさまは、私の後ろに回れ、といわれます。そして、自分の十字架を背負ってついてきなさい、といいます。
 ルターの神学は、十字架の神学といわれます。十字架の神学の反対は、栄光の神学です。栄光の神学とは、信仰を持っていれば、災いを避け、福が来る、という信仰です。聖書にそんなことが書いてあるだろうか、とルターは言います。聖書には、神の子が苦しみを受け、排斥され、十字架につけられたと書かれています。聖書が教えていることは、絶望の次にこそ、絶望の中にこそ、新しい希望がある、ということです。十字架の次に、復活がある。復活のために必要なことは、きちんと死ぬことです。きちんと絶望することです。私たちは、色々言い訳をします。手に入らないものを、それほどほしくなかったとか、あいつが悪い、時代が悪い、まだ可能性がある、とかいろいろ言いますが、そんな言い訳をやめて、きちんと絶望してみると、次にやるべきことが見えたりします。
 以前お話ししましたが、去年の健康診断で、初めて大腸にポリープのある可能性があります、精密検査を受けてください、という診断をもらいました。それまで、生きることも大変だから、自分はそんなに生に執着してない、と思っていましたが、改めて、死にたくない、生きたい、と思いました。そうはいっても、いつかはやがて死ぬものです。死に対して、命に対して、自分はとても無力で、最終的に自分にできることはないのだと、改めて思わされました。全世界を手に入れても、自分の命を失えば、何にもならないと聖書は言います。
 聖書が求めていること、イエスさまが求めるのは、自分の無力さを認めて、素直に助けを求めることです。カナンの女のように、犬としてでもパンくずを求めること。本当の意味の謙虚に、幼子のように助けを求めることです。イエスさまの後ろに回り、信じてついていくことです。神さまのなさることは不思議です。よく理解できないこともあります。救い主に苦しみを与え、十字架につける、人間には思ってもみないことです。でも、この道は、復活と永遠の命に繋がっているといいます。無力なものとして、イエスさまの後ろを信じてついていきましょう。


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