2025日 主の顕現

                 マタイ福音書2章1~12節 「 隣国の救い主 」 

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

  今、東京女子大の学長をしている森本あんり先生の本に、ジョンレノンのイマジンという曲が好きで、宗教も、国境もなければ、争いなんてなくなる、って歌ってて、一理あるとも思うけど、この当時、ジョンレノンとポールマッカートニーがすごく仲悪くて、ビートルズが分裂した時の曲なんだよね、って書いてあって、笑っちゃったんですけど、そこで森本先生が言うのは、人間は罪深い、っていう話なんです。
 今日の聖書の話は、いわゆる三人の博士の話ですが、正確には、三人とは書いてはいなくて、ささげた宝が三種類だから、三人って言われていますが、もうちょっと多かったともいわれています。博士とは、新共同訳では書かれていなくて、占星術の学者と書かれています。占い師や魔術師のようなイメージだという人もいるんですけど、おそらくは、非科学的な人たち、というより、科学の一歩手前みたいなイメージに近いといわれています。だから、学者なのだと思います。小学生の時、冬の星座とか、夏の大三角形とか授業で教わって、毎年季節ごとに見える星座って大体決まっていて、星の配置も決まっているのを知って意外に思った記憶があります。占星術の学者たちも、その季節ごとの星の配置を把握していた人たちです。もちろん星が全部固定されているわけではなくて、彗星があったり、流星があったり、わずかにいつもと違う現象が起こっています。その変化を見つけて、それに連動して地上に変化が起こることを感じ取った人たちです。
 イエスさまが生まれた時、いまだかつてない、星の動きがあったのかもしれません。人は時々、自分でも分からない衝動に駆られることがあります。普段ではしない、行動に突き動かされることがあります。占星術の学者たちは、その衝動に従ったようです。そして、ユダヤの国まで旅に出ます。学者たちの読み解きは、ユダヤに将来偉大な働きをなす、新しい王が生まれたということです。学者たちはエルサレムを探しますが、そこに新しい王はいません。学者たちのうわさを聞いたヘロデ王は、自分にその時新しい子供が生まれていたのならよいのですが、自分のあずかり知らないところで新しい王が生まれたとなれば、自分の王座を奪う存在です。ヘロデは聖書を調べさせ、学者たちにベツレヘムに救い主が生まれたことを教え、見つけたらすぐ知らせるように言い聞かせています。
 ベツレヘムまで行った学者たちは、そこで自分が見つけた星が再び動き出し、その星によってイエスさまのもとへ導かれます。学者たちは喜びにあふれ、幼子にひれ伏して拝み、宝をささげたといいます。
 東の方から来た学者と書かれていますが、方角的に言えば、アッシリア、バビロン、ペルシャなどです。かつて、イスラエルを支配していた国の人たちです。でも、この学者は、幼子にひれ伏して宝をささげたといいます。隣国に生まれた救い主です。屈辱的だとは思わないのだろうか、そんな風に思ってしまいます。これは想像でしかありませんが、ずっと星を調べ、宇宙を眺めていたこの学者たちは、自分たちの小ささを知っていたかもしれません。小さな地球の中で、争い合う人間の愚かさを知っていたのかもしれません。だからこそ、どの国の人であれ、そこに大きな新しい光が与えられたことを素直に喜べたのかもしれません。
 森本あんり先生の本に書いてありました。人間は罪深い。人は言うかもしれない、国がしっかりすれば、国連が機能すれば、宗教が本来の姿であれば、でも人間は自分が罪深いものであることを謙虚に見つめなおさなければいけないと。どんなに良い器を作っても、その中にいる人間は、罪深いものであることをまず自覚しなければいけません。
 学者たちは、自分が身に着けた知恵によって、エルサレムまで来ました。聖書の教えによってベツレヘムまで来ました。そして、自分になじみ深い星が、又導いてくれる。学者たちは、自分の力で打どりついたとは思ってはいないでしょう。不思議な衝動が与えられ、聖書の教えられ、なお不思議な導きが与えられた。
 この一年がどんな一年になるかは分かりません。誰も知らぬ、新しい旅が始まります。まずは、自分の愚かさ、小ささに自覚的でありましょう。その時に教えが与えられ、導きが与えられます。人は謙虚さがない時、教えや導きがあってもそれに気づくことができません。それに耳を貸すことができません。自分の力ではなく、導かれる方の力を信じて、新しい一年を歩みましょう。


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