202512日 主の洗礼

                 ルカ福音書3章15~17 21~22節 「 あなたは誰に愛されているか 」 

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

  人は本当に自信のある時は、謙虚にふるまえるものです。本当には自信がない時には、自分がどれだけ価値のある人間か、表現せずにはいられなくなったりします。ですから、自慢話をする人や、自分のキラキラした生活をSNSにあげる人は、本当の意味では、自分のようなものが生まれてきて良かったのだろうか、そんな不安が心の奥底にはあるのだと思います。そのせいで、自分の価値を表現してしまうのだと思います。
 今日の福音書の日課は、大人になったイエスさまが、初めて登場する箇所です。公活動のスタートといわれますが、イエスさまが初めにしたことは洗礼を受けるということでした。イエスさまの公活動の前に、まず、道を整えるものとして、洗礼者ヨハネが現れました。わたしたちは、もう言い慣れていますが、洗礼者ヨハネとは、すごい呼び名です。このヨハネの主だった働きは何だったのか、すぐにわかる名前です。このヨハネは洗礼活動を行った人です。ヨハネの洗礼は、罪の赦しを得させるための洗礼と33節に書かれています。差し迫る神の裁きの前に、罪の赦しを得させる洗礼を授けていったものです。
 多くの人がヨハネのもとに集まったといいます。自分の失敗を報告するとき、選択肢があるならば、赦してくれそうな人に報告します。厳しい人には、自分の失敗を隠そうとします。洗礼者ヨハネの言葉は、厳しい言葉ではありますが、罪の赦しを得させる洗礼を授けていったものです。だからこそ、多くの人が集まりました。実はこのヨハネが、預言者たちが語っていたメシアでは、そう思う人もいました。しかし、ヨハネは、自分の後から自分よりはるかに優れたものが来るといいます。私は水で洗礼を授けたが、その方は聖霊と火で洗礼を授けるといいます。
 水による洗礼と、聖霊による洗礼はどこが違うのでしょうか。教会は、ペンテコステ、聖霊降臨祭で、火のような聖霊が使徒たちに下り、そこから洗礼活動、父と子と聖霊の名による洗礼を授け始めていきます。
 わたしたちも、聖霊によって洗礼を受けたものです。聖霊による洗礼とは、何を意味するのでしょう。
 今日の箇所で、イエスさまが洗礼を受け、祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿で、イエスさまのうえに下ってきたといいます。イエスさま自身が、聖霊による洗礼を受けた方です。聖霊が降ると、神さまの声が聞こえたといいます。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

  わたしたちが洗礼を受けたときは、目に見える形で聖霊は降っていませんし、耳に聞こえる形で、「あなたは私の愛する子」という神の声は聞こえていません。ただ、イエスさまは、聖霊による洗礼が何を意味するかを示すために、おそらく罪の赦しを受ける必要がないにもかかわらず、私たち罪人と共に、洗礼を受けたのだと思います。ヨハネは言いました、その優れた方は、手に箕を持って実のない殻を焼き払われる姿で来られると。しかし、実際のイエスさまは、罪の赦しを受けるために集った罪人の一人として、洗礼を受ける私たちの中の一人として、公の場に現れました。
 わたしたちには、聞こえませんでしたが、あなたが洗礼を受けたときには、天では喜びがあり、「あなたは私の愛する子」という声が響き渡っていたかもしれません。イエスさまは、公活動を始めるにあたって、神さまが自分を愛してくださっている声を聴きました。
 わたしたちの心の底には、自分のようなものが生まれてきて良かったのだろうか、そんな不安がいつもあります。しかし、聖書は私たちに語り掛けます。あなたは、誰に愛されていると思っているのですか。あなたは、この世界を創り、あなたを造った、創造主から愛されており、あなたの存在が祝福を受けていると。
 洗礼は、私達が罪人である証明であり、それでもなお神さまに愛されているしるしです。神さまの赦しと、変わらぬ愛があるからこそ、私たちは自分の罪を認め、自分が罪人であることを認めることができます。
 自分に自信を持つ必要はありません。あなたは弱い罪人ですが、それでも神さまに愛されています。この信仰を命綱にして、イエスさまが公活動を始めたように、私達も新しい一週間を始めましょう。


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