2025日 顕現後第5主日

                 ルカ福音書5章1~11節 「 主と弟子 」 

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。  

  最近、何が正しいのか、誰が正しいもので、誰が悪いものなのか、分からないと感じることがあります。加害者だと思っていた人が、被害者に見えたり、いい人だと思っていた人が、結構変な人だったり、正しい情報を見分けるのも、その人がどんな人なのか判断するのも、分かりにくい時代であると感じます。
 今日の箇所は、ペトロがイエスさまの弟子になる場面です。ペトロは漁師で、この日は夜通し漁をして、魚が一匹も取れない朝でした。そこへイエスさまと、その話を聞きに来る群衆が来たといいます。群衆に押しつぶされそうになったのか、二艘あった船のうちペトロの船を選んで、イエスさまは少し岸から離れるように指示し、そこから群衆に向かって話をされます。
 
話しが終わった後、イエスさまはペトロに、沖に漕ぎ出して、漁をするように命じます。沖と書かれていますが、言語通り訳すと、「深いところ」という意味です。深いところへ行って、網を下すように言います。この当時、この湖での漁は夜、浅瀬でするのが常識だったといいます。しかし、ペトロは「お言葉だから」やるといいます。この時、ペトロとイエスさまは初対面ではありません。4章で、ペトロの姑が高熱であった時癒された、という話が出てきます。だから、ペトロはおそらく積極的な意味ではなく、消極的な意味で、「プロの私が夜通し苦労して取れなかったが、お言葉ですから、やるだけやって見せます。」そんなニュアンスで返答したのだと思います。しかし、網をおろしてみると、船一艘ではおさまり切れない程の魚が取れたといいます。普通の物語であれば、めでたし、めでたし、となるのかもしれませんが、聖書は違います。ペトロは畏れに包まれます。イエスさまにひれ伏して、

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」

  信じて従ったわけではない。そのようなものに与えられる恵みに、ペトロは畏れを感じたといいます。イエスさまに、聖なるものを感じたのかもしれません。それまで、先生と呼んでいましたが、主よ、と呼んで、「わたしから離れてください。わたしは罪深いものです。」そう語ってひれ伏したといいます。聖書の示す救い主は、たんに優しいとか、何でも自分の思い通りにしてくれるとか、そういう存在ではありません。計り知れない存在であり、圧倒的な存在です。
 イエスさまはペトロに、「恐れることはない、今から後、あなたを人間をとる漁師にする。」そう語ります。なれるとか、なるだろう、というのではなく、人間をとる漁師にする、私がする、そう語ります。ペトロは、全てを捨てて従った、と書かれています。まさに弟子です。弟子というのは、師匠の意図が、分からなくても信じて従うものです。ペトロはこの先、どのようになるかは分からなくても、信じて従うものになりました。その道はペトロにとって、決して良いことばかりが起こったわけではりません。自分の無理解さや弱さなどもあらわにされていく道のりでした。でも、それも必要な道のりと、信じて従う弟子でした。
 キリスト者も、イエスさまを主と呼ぶものです。本当に良いか悪いか、自分の判断より、イエスさまのみ旨に従うものです。ある牧師が語っていました。聖書が語る「福音を信じる」とは、愛と赦しの力を信じることだと。しかし、その牧師は正直に言う、本当に罪人を赦していいのだろうかと、その葛藤をいつも抱えていると。でも、自分の判断ではなく、私は主に従う、その牧師はそう語ります。ペトロにとって、それまでの自分の常識の中では見えなかった、自分の知らない世界がある。イエスさまとのこの時の出会いで、大きな印象を受けたのだと思います。沖へ漕ぎ出してみよう。もっと深いところへ行って網をおろしてみよう、そんな思いでイエスさまの言葉に従い、冒険に踏み出したのでしょう。
 聖書には不思議な教えがあります。「敵を愛しなさい」そう教えます。愛せたら、敵ではないだろう、そう言い返したくなります。でも、こう考えることもできる。あなたは相手が敵であろうが、味方であろうが、良い人であろうが、悪い人であろうが、あなたは常に、人を愛しなさい、そう教えられている。教えられたというより、弟子として主から命じられていることです。福音とは、愛と赦しの力を信じることです。分かりにくいこの時代の中で、相手を判断するより、常に人を愛そうとする、それがイエスさまの教えであり、実際にイエスさまが貫かれたことでした。不肖の弟子ではありますが、イエスさまを信じて、従っていきたいと思います。


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