2025年2月16日 顕現後第6主日 |
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ルカ福音書6章17~26節 「 最後の砦 」 | |
6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。 6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。 |
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エルピスというドラマがあります。2年前くらいに放送されたドラマで、最近たまたま見返しました。若手のテレビディレクターと中堅の女性アナウンサーがある死刑囚の冤罪を明らかにしていくドラマです。二人は真実をつかんでいきますが、直属の上司、放送局の上層部、警察や司法、政治家の圧力と妨害で、真実や正義が捻じ曲げられていくことと戦い、そのたびに力に屈していくドラマです。その力をはねのけていく話しではなく、負け続ける話です。最後は、少しだけカタルシスがありますが、それでもやはり正義は捻じ曲がったままです。権力や力があれば、罪を無かったことにしてしまえるのか、と思わされます。 今、世界の情勢を見る時、力のある国は、力にまかせてやりたい放題なのだろうかと思わされることがあります。正義や困難を抱えている人への憐みなど、簡単に踏みつぶされていくように思えます。自分自身の問題も、無かったことにしてしまうのか、と思わされることもあります。 ふと思います。神の裁きって、最後の砦ではないのかと。エルピスという言葉の意味は、このドラマの副題にもなっていますが、希望という意味と、災いという意味があります。神さまの裁きって、響きとしては災いかもしれませんが、もしかして最後の希望なのかもしれない、と思います。 わたしたちは時々、宗教や信仰というのは、この世界、あるいは神さまに対する傾向と対策が、まとめられているもののように思っているかもしれない。しかし、神さまは、対策をうてない存在です。ごまかしのきかない存在です。すべてを見抜かれている方だからです。人間の側が、傾向と対策をしっかり行っても、わたしたちの思いをはるかに超えてくる存在です。 神の国に真っ先に招かれる人たちがいます。信仰深い人でも、愛に生きる人でもありません。神の国に真っ先に招かれる人は、貧しい人です。ルカ16章に「金持ちとラザロ」というたとえ話が出てきます。ラザロは貧しく、できものだらけだったと書かれています。信仰深かったわけでも、愛情深かったとも書かれていません。このラザロが神の国に招かれています。理由は、生きている間、悪いものをもらっていたからだといいます。今日の箇所でもイエスさまは言います。 貧しい人々は幸いである 神の国はあなた方のものである
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